このページはあくまでも工藤の個人的なページですが、教会の行事予定についてはカトリック教会の公式なものですし、教皇様のメッセージはそのまま掲載しております。工藤個人の感想や意見についてもカトリック教会で発行している「毎日のミサ」を参考にしていることが多いです。(2024.2.3)
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3月13日 マタイによる福音(マタイ7.7~12) そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者は開かれる。あなた方のだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、ヘビを与えるだろうか。このように、あなた方は悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は求めるものに良いものをくださるに違いない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方は人にしなさい。これこそ律法と予言者である。」(考えてみれば、今の時代は災害や様々な困難に見舞われている人がたくさんおられますが、積極的に何かをするということにかかわる人は少ないのではないかもしれませんね。反省!)
3月9日 おとずれ641号です
3月8日 今日は雪が降りましたので、教会に行きました。いつもの階段は除雪されていましたが、灯油タンクのところはママダンプは幼稚園の卒園式のため車があって入れなかったので、スコップで除雪しました。また、ストーブの排管の周りは雪が降って少し危ないので排雪しました。皆さん危機意識を持ってほしいのですけどね。ほんと、危ないのですよ。どなたも気が付かないのは。
3月5日 今日は「灰の水曜日」ということで、ミサがあり、侍者を依頼されていたので教会に行きました。今年のキリストの復活日(4月20日)までの40日間(断食期間)を回心と償いの期間として過ごす最初の日になります。神父様から回心のしるしとして灰を頭に受けます。「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」(自分たちの無力さと足りなさを率直に認め、悔い改めて命の源である神に立ち返るように祈ります。)(神父様は僕の頭にごっそりと灰を置きました)
3月1日 マルコによる福音 その時、イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして子供たちを抱き上げ手を置いて祝福された。(私たち大人、老人はもう素直な気持ちが失われています。神の国は遠いな。)
2月23日 久しぶりに教会に行きました。新海神父様は初めてでしたけど、声が素敵な神父様でした。今日はルカによる福音 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「私の言葉を聞いているあなた方に言っておく。敵を愛し、あなた方を憎むものに親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を送り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着(外套のようなもの)を奪い取る者には、下着(日常の衣類)をも拒んではならない。求めるものには、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛する人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。罪びとでも、愛してくれる人を愛している。また、自分に良くしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなた方は敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は恩を知らない者にも、情け深いからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。人を罪人だと決めつけるな。そうすれば、あなた方も罪人だと決めつけられることはない。赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。与えなさい。そうすればあなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りを良くして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で返されるからである」(究極の愛ですが、神父様でも許せないような人がいたそうです。心の中の気持ちはどうしようもない時はありますね。イエス様の言葉は究極すぎて理解を超えるときがありますね。)
2月21日 マルコによる福音 その時、イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は私のことを何者だと言っているのか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに『エリヤだ』と言う人も、『予言者の一人だ』と言う人もいます」。そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなた方は私を何者だというのか」ペトロがこたえた。「あなたはメシアです」。するとイエスは、御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちに戒められた。 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教えられた。しかもこのことをはっきりとお話になった。するとペトロはイエスをわきにお連れして、いさめはじめた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながらペトロを𠮟って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(イエスは御自分が殺され、三日目に復活することを予言します。でも誰もそのことはわかりませんでしたね。)
2月14日 今日の「毎日のミサ」では創世記が紹介されていて、神に逆らってアダムとイブがりんごを食べてしまって、そこから死と言うものや罪(原罪)と言うものが始まったとされています。だからその後の人類はすべて罪を背負い込むことになったとされています。私はこの考え方はあまりにも重いことだと思います。いくら物語だといっても幼児洗礼の私としては、小さなころからそう信じてきましたが、根本のところがそれだからね。神に逆らって1種類の実(リンゴ)を食べるのがだめと言っておられるようで、わたしを苦しめる原因ですね。お話だとして軽く受け止める話ではないですね。キリスト教は人間になかなかの重荷を背をわせるけれど、東洋人の私には理解できない部分が多いですね。カトリック教会は、わからないことは「人間には理解できないことだ」という解釈になっていることが多いですね。以前神父様の説教で、神学生時代に理解できずに神学生は皆大いに悩んだこともあったみたいです。
2月11日 1858年2月11日はルルドの洞窟に聖母マリア様がベルナデッタ・スビール(14歳)の前に現れた記念日です。明治維新の前なのか。教会当局によって神聖なものとして認定されたそうです。聖母マリア様は18回現れたそうです。洞窟の中から水が湧き出て、奇跡も起こったようです。その後ルルドは国際的な巡礼地になっています。南フランスです。不思議なことがあるのですね。子供のころ聞いた話でもあります。
2月9日おとずれ640号
2月9日 ルカによる福音(イエスはゲネサレト湖畔で群衆に教えられた後で)シモンに「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労をしましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えた。そして漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう1艘の船にいる仲間たちに合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、2艘の船を魚でいっぱいにしたので、船は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。私は罪深いものなのです。」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。そこで、彼らは船を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(これはビックリしますね。思わずひれ伏してしまいましたね。人間をとる漁師になりなりなさいという教えですが、現在私たちはどうなのでしょうか)
2月2日 今日は集会祭儀で司会をしましたが、いつもの通り、間違いをしました。不思議なことに間違いもだんだん慣れてきて、困ったものです。集会祭儀の後には皆さんとコーヒータイムでした。新しくお話しできた方もいて、出会いと会話に感謝です。そのうちお菓子に加えて何か果物を持って行こうかな。3月5日(水)のミサでは侍者をする予定です。ミスがないようにしないとね。
1月31日 二日間雪が降りましたので、教会に行きましたが、昨日は業者によってきれいに除雪されていました。しかし玄関前の入り口の階段の除雪をして、さらに灯油タンクの前の除雪(雪がいっぱい)をしました。去年は灯油がなくなっているのがわかりませんでしたので、今年は注意しています。また、外に出ているストーブの排管が心配でしたので少し除雪をしていたら、となりの幼稚園の男児が近寄ってきました。何をしているのか興味あるのですね。今日は玄関前の階段がなぜか雪が落ちていました(鐘のある塔から雪が落ちるそうですね)ので、除雪をしました。「おとずれ」(640号)の編集会議の皆さんがおられて、コーヒーをごちそうになりました。御褒美ですね。


2月5日 日本26聖人殉教者 日本26聖人の一人、パウロ三木は1564年から1566年の間に生まれた。イエズス会に入会して福音を宣べ伝え、大きな成功を収めた。やがてキリスト教に対する迫害が激しくなると、他の25人とともに捕らえられ、残酷に扱われて嘲笑を受けた。そして、ついに長崎に連行され、1597年2月5日、磔にされて殉教した。26名には20名の日本人の他スペイン、メキシコ、インドの出身者がいた。彼らは1862年6月8日ピオ9世教皇によって列聖された。なお、この祝日はローマ規範版では「聖パウロ三木と同志殉教者」の記念日の名称で2月6日に祝われている。(毎日の読者より)
1月30日 ヘブライ人への手紙 兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって、聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです。さらに、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行を励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろは励ましあいましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(私たちの信仰を継続することの大切さを教えてくださいます)
1月29日 マルコによる福音 (長い福音ですが、今年は頑張って記入します)その時、イエスは再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まってきた。そこで、イエスは船に乗って腰を下ろし湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろ教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種をまく人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。他の種は、石だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。他の種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて、覆いふさいだので、実を結ばなかった。またほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった。」そして、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われた。 イエスが一人になられた時、12人とイエスの周りにいた人たちが、例えについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなた方には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って許されることがない」ようになるためである。」 また、イエスは言われた。「このたとえがわからないのか。ではどうして他のたとえが理解できるだろうか。種をまく人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこにみ言葉が蒔かれ、それを聞いてもすぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみ言葉を奪い去る。石だらけのところに蒔かれるものとは、こういう人たちである。み言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いていても、後でみ言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐにつまづいてしまう。またほかの人たちは茨に蒔かれるものである。この人たちはみ言葉を聞くが、この世の想い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、み言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍実を結ぶのである」(マルコ4・1~20)(まことにほとんどの方は神のみ言葉を聞いてすぐわかったような気がしていても、すぐに忘れてしまいます。「神のみ言葉、神に感謝」、などといつもとなえていますけど。でも聖書の言葉として、印象深い言葉ですね)
1月23日 マルコによる福音 その時、イエスは弟子たちとともに湖の方へ立ち去られた。ガリラヤからおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まってきた。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人を癒されたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。(群衆が押し寄せてきて、イエスに触れようとしたみたいです。イエスの絶頂期です。)
1月18日 ヨハネによる福音 その時、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスもその弟子たちも婚礼に招かれた。ブドウ酒が足りなくなったので、母はイエスに、「葡萄酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません」。しかし、母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが6つ置いてあった。いずれも2ないし3メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水を一杯入れなさい。」と言われると、召使たちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召使たちは運んで行った。世話役はブドウ酒に変わった水の味見をした。このブドウ酒はどこから来たのか、水をくんだ召使たちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「誰でも初めに良いブドウ酒を出し、酔いが回ったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いブドウ酒を今まで取っておかれました。」イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現されました。それで、弟子たちはイエスを信じた。(イエスの最初の奇跡として有名なカ所ですね。イエスの最初の言葉はちょっと冷たかったですが、マリアのために奇跡を示されました。この奇跡は何か意味があるのでしょうか。最初の奇跡としての意味なのでしょうか。)1メトレテス=39リットル
1月17日 マルコによる福音 イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢に人が集まったので、戸口の辺りまで隙間もない程になった。イエスがみ言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んできた。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり下ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は許される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれ考えた。「この人は、なぜこのようなことを口にするのか。神を冒涜している。神一人のほかに、いったい誰が、罪を許すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜそんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は許される』というのと、『起きて床を担いで歩け』と言うのとどちらが易しいのか。人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを知らせよう。」そして中風の人に言われた。「私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことはない。」と言って神を賛美した。(イエスは盛んに奇跡を見せますね。目の前での奇跡でみんな仰天しますね。それにしても当時は病気や障害者に対して「罪は許される」と言われたのかな。原因は罪深き者だという風習なのか。屋根をはがすというのはちょっとすごすぎだね。)
1月11日 おとずれ639号
1月7日 マルコによる福音 その時イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐み、いろいろと教え始めた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れたところで、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「私たちが200デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンはいくつあるのか見てきなさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「5つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組みに分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、100人、50人、ずつまとまって腰を下ろした。イエスは5つのパンと、二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そしてパンの屑と魚の残りを集めると、12のかごにいっぱいになった、パンを食べた人は男が5000人であった。(なぜこの時期にこの奇跡のお話を取り上げたのかはわからないけれど、有名な箇所です。「毎日のミサ」では「パンを増やすことによってイエスは自分が預言者であることを示された」と書いてあります。よくわかりません)
1月1日 ルカによる福音 その時、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳のみ子を探し当てた。その光景を見て、彼らはこの幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いたものは皆羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた。羊飼いたちは見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日経って割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは胎内に宿る前に天使から示された名である。(1月1日はその日なんですね)

そうです。
12月29日 いよいよ2024年も終わり、2025年が始まります。日ごろから元気で教会に来られる方々とコーヒーを飲んだり食事をしたりしていますが、病気やお体の調子が悪い方は教会にお顔を見せられません。そんな方々のことをついつい忘れそうになりますね。そんな近くの友人のことを思い出し、一日も早く回復されて、来年こそはまたお会いしたいですね。皆様に神の祝福がありますように祈ります。
12月28日 マタイによる福音 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢で現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこに留まっていなさい。ヘロデが、その子を探し出して殺そうとしている」。ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは「私は、エジプトから私の子を呼びだした」と、主が預言者を通して言われていたことを実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちに騙されたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、ひとり残らず殺させた。こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。こどもたちがもういないから」。(キリスト様が生誕してすぐにエジプトに逃れるという、悲惨な事態です)
12月24日 今日は18時からキリスト生誕ミサがありました。侍者を60年ぶりにしましたが、ビックリですね。僕自身80歳ですので、こんな年になって神父様のお手伝いができるなんて。
12月22日 最近「子ども食堂」と言って、恵まれない子供たちに食事を提供する取り組みがニュースになっています。カトリック教会ではせめて、クリスマスに近所の子供たちにささやかなクリスマスプレゼントをすると言うのはどうでしょうか。今年は間に合わないけど、教会を知っていただく機会になりますね。隣にこども幼稚園があるし。来年こそは提案してみようかな。(ちなみに「学童保育」と言うのがありますが、僕は少し関連を持っていて、たまにお菓子や漫画を持って行くことがあります。皆良い子ばかりです)
12月22日 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入って、エリザベトにあいさつした。マリアのあいさつをエリザベトが聞いた時、その胎内の子が躍った。エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母さまがわたしのところに来てくださるとはどういうわけでしょう。あなたのあいさつの声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んで踊りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(この言葉はアベ・マリアの祈りですね)
12月18日 マタイによる福音 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(信者以外の人にはなかなか理解されないですね。約2000年前の話なので、神話ですね。)
12月8日 大麻教会ではイエス様の生誕の準備です。24日までは赤ちゃんのイエス様はありません。

12月7日 今月からはいよいよイエス様の生誕を迎える月ですね。世間ではクリスマスと言うことで、もう1か月前からクリスマスの準備です。でもそれはクリスマスプレゼントやケーキの準備などで、イエス様のまずしい生誕はどこかに行っています。僕たちにとってはイエス様の生誕はうれしいことですが、即ヘロデ王からの逃避につながるので、これはこれでなかなかの生誕をめぐるの出来事です。イエス様の生誕は苦難の始まりです。だから、信仰の始まり、原点となる生誕祭はつましいものであるのですが、キリスト教に対して思いを寄せる月になるので、ありがたく考えることにしています。(ちなみに僕の誕生日は昭和19年の10月で、鳥取の市内です。戦争末期でしたので、どんな状況かわかりませんが、生まれた後家族は大山の山の中に開拓団として入植しています。食料不足の中で弟は生まれてすぐに死去しています。僕はしぶとく生きてきましたね。妹はしばらく後で叔父の家に引き取られました。戦争は個人の生活をいろいろ破壊しました。また鳥取の地震で自宅は崩壊し、長女は下敷きになり、足を折ったそうで、その時、市内の病院はすべて崩壊していて、苦労したという話を聞いたことがありましたね。イエス様とは比べようもない話で、申し訳ないですが)
12月5日 マタイによる福音 その時、イエスは弟子たちに言われた。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものはみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わないものは皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲い掛かると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(かたい信仰に満ち溢れている人とそうでない人の違いは明確ですね)
12月3日 マルコによる福音 その時、イエスは11人の弟子に現れて、言われた。「全世界へ行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手でヘビをつかみ、また毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、いたるところで説教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによって、はっきりとお示しになった。(イエスの復活後のお話です。弟子たちが各国の言葉で話ができるというお話でもあります)
11月30日 マタイによる福音 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、船の中で網の手入れをしているのをご覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、船と父親とを残してイエスに従った。(イエスが言うとすぐ従うほど、イエスが有名だったのかな)
11月18日 ルカによる福音 イエスがエリコに近づかれた時、ある盲人が道端に座っていて物乞いをしていた。群衆が通っていくのを耳にして、「これはいったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫んだ。先に行く人々がしかりつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れてくるように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになられた。「何をしてほしいのか」。盲人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこでイエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆はこぞって神を賛美した。(奇跡は人々をたちまち信仰者にします。また信仰が奇跡を生みます)
11月17日 今日は僕が司会の集会祭儀でしたが、肝心なところを飛ばしそうになりました。80歳だからかな。いつも何かしら失敗しますね。でも皆さん寛容です。集会祭儀の後は皆さんと教会内の大掃除です。その後は手作りのサンドイッチとコーヒーをごちそうになりました。今日はあいにくと雨でした。

11月10日 今日は森田神父様を囲んで昼食とコーヒータイムがあり、20名ほどの信者さんが残って食事とコーヒーを楽しみました。座っている位置からしか写せませんでしたけどね。今朝は一人の信者さんから僕のブログを見てますとのお話がありました。野鳥コーナーについてお話していました。見てくれる方がもう一人おられます。教会ではなかなか会えないでいましたが、ホームページではいつも見てくれているようです。



11月9日 ヨハネによる福音 ユダヤ人の過ぎ越し祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上ってこられた。そして、神殿の境内で牛や羊やハトを売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、ハトを売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる。」それでユダヤ人たちは「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で立て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者のうちから復活された時、弟子たちはこういわれたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉を信じた。(こりゃみんな怒るな。日本でも三日で城を立てるといった話があったね)
11月3日おとずれ637号
10月24日 最近、以前に読んだことのある遠藤周作の「キリストの生涯」と言う本を読んでいます。昭和57年発行の本です。遠藤周作らしい考察です。当時の人々の生活や不満、そしてキリストの対応とのずれなど。そうですね。愛については今の時代にぴったりなので、その当時の民衆の期待とは全く違っていたかもしれません。
10月13日 運営委員長からの提案が。以前、畑を作っているので、野菜を信者さんに提供したことがあります。昨日は大麻教会の駐車場を使って、野菜の販売をしてはどうかとのお誘いでした。僕も80歳なので、北広島の畑(50坪)もどうしようかと考えているところです。耕運機も故障中です。皆さんが提供してほしい野菜は多分トマト、キュウリ、大豆、大根、カブ、トウキビなどかな。北広島の畑にはアライグマやいわゆる盗人もいます。トマトはいつ行っても実らないので不思議に思いましたが、その都度盗まれていましたし、トウキビはアライグマに見事にとられていました。100本中99本やられました。1本だけ食べましたね。遠いところは監視がきかないので、考え方も変える必要がありますね。近く、出来れば大麻近辺で、しかも信者さんの協力を得ながら畑作業もしていくためのチームを組めないかな。 ①まず信者さんの畑はあるのか、②畑を起こすときに協力できる信者さんが何名かおられるか、③たまに雑草を取りに来られる信者さんがおられるか。④肥料などの経費を負担していただけるか、ちょっと考えてみないといけないですね。
10月10日 ルカによる福音 その時、イエスは、弟子たちに言われたあなた方の内誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを3つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かを上げるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は友達だからと言うことでは起きて何かを与えるようなことではなくても、執拗に頼めば、起きてきて必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。あなた方の中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりにヘビを与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、サソリを与える父親がいるだろうか。このように、あなた方は悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、天の父は求めるものに聖霊を与えてくださる。」(求めよ、そうすれば与えられる。有名な言葉ですね。天に対しても執拗に頼むべきなんですね。遠慮していてはだめですね。)
10月5日 ルカによる福音 そのとき、72人は喜んで帰ってきて、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。ヘビやサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなた方に授けた。だから、あなた方に害をくわえるものは何一つない。しかし、悪霊があなた方に服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」。その時、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢いものには隠して、幼子のようなものにお示しになりました。そのです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父の他に、子がどういうものであるかを知るものはなく、父がどういう方であるかを知るものは、子と子が示そうと思う者の他には、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなた方の見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているものを見たがったが、見ることができず、あなた方が聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」 (12人の使徒の他に72人を任命したのですね。)
9月29日 今日は江別教会で合同ミサがありました。50人も集まって、聖歌を歌いましたが、たくさんの皆さんで聖歌を歌うといつもとは違う荘厳な雰囲気になりますね。ミサの後にはお茶会をして、そのあと開発さんとは森林公園の中にあるキャンプ場横のコロコップルまで行っておそばを食べましたが、とても喜んでくれましたね。こちらは原始林の自然豊かな中で、しかも外のテーブルでそばを食べることができました。秋の涼しい空気の中で、緑いっぱい広がる広いキャンプ場が見渡せました。


9月25日 ルカによる福音(ルカ9.1-6) その時、イエスは12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を癒すために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこに留まって、その家から旅立ちなさい。誰もあなた方を受け入れないなら、その町を出て行くとき、彼らへの証として足についたほこりを払い落しなさい。」12人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、いたるところで福音を告げ知らせ、病気を癒した。(いよいよ弟子たちがイエスの代理人として神の国の宣教に旅立ちましたね。イエスを裏切ったユダの後弟子は補強されたんだったかな?)
9月15日 集会祭儀でしたが、そのあとコーヒータイムがありました。コロナの問題がほぼ解決したとはいえ、高齢者の集まりです。お互いに注意しながらもたまにはコーヒーを飲んで談笑したいですね。普段会話が少なくなっていますので、皆さん楽しそうです。



9月12日 ルカによる福音(ルカ6・27~38)その時、イエスは弟子たちに言われた。「私の言葉を聞いているあなた方に言っておく。敵を愛し、あなた方を憎むものに親切にしなさい。悪口をいう者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。あなたのほほ(頬)を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではならない。求めるものには、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分に良くしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でさえ同じものを返してもらおうとして罪人に貸すのである。しかし、あなた方は敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなた方の父が憐れみ深いようにあなた方も憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなた方も罪人だと決められることがない。許しなさい。そうすればあなた方も赦される。与えなさい。そうすれば、あなた方も与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りを良くして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。」(う~ん!究極だな。最近もとんでもない人がいたな。だいぶ前にも友人に10万円を貸したことがあって、その方が亡くなって奥様が来て、お金を返してくれましたね。返金は期待はしていなかったけど。「人を裁くな」と言われてもどうしても自分の基準で裁こうとする、心の狭い私です。)
9月10日日本205福者殉教者 日本の26聖人が1597年に長崎の西坂で殉教した後も、幕府によるキリシタン弾圧の手は緩むことがなかった。1867年にピオ9世教皇によって福者として選ばれた205名は、1617年から1632年にかけて長崎、江戸、仙台など日本各地で殉教して、信仰を力強く証しした人たちである。その国籍は日本、スペイン、ポルトガルなど、7か国に及んでいる。(「毎日の読書」)(わずか400年前のことですが、信仰によって殉教した人たちがいました。今も神の名によって人々を殺戮している人たちがいます。)
9月6日ルカによる福音(ルカ5.36~39) イエスはたとえ話をされた。「誰も新しい服から布切れを破り取って、古い服に継を当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服からとった継ぎ切れも古いものには合わないだろう。そんなことすれば、新しいブドウ酒は革袋を破って、流れ出し、革袋もダメになる。新しいブドウ酒は新しい革袋に入れなければならない。また、古いブドウ酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』と言うのである。」(有名な言葉ですね。結構易しそうで難しい。)
9月5日 使徒パウロのコリントの教会への手紙 皆さん、だれも自分を欺いては行けません。もし、あなた方の誰かが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に千恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる。」と書いてあり、また、「主は知っておられる、知恵のある者たちの議論がむなしいことを」とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべてはあなた方のものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切はあなた方のもの、あなた方はキリストのもの、キリストは神のものです。(確かに議論ばかりして、実行には乏しい人もいます。)
9月4日ルカによる福音(ルカ4・38~44) その時、イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンの姑が高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕元に立って熱をしかりつけられると、熱は去り、彼女はすぐに立ち上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむものを抱えている人が皆病人たちをイエスのもとに連れてきた。イエスはその一人一人に手を置いて癒された。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものをいうことをお許しにはならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを探し回って、そのそばに来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。(当時は病人はみな悪魔の仕業なのかな。医者など近くにいないし、皆イエスに頼るしかないので、とても便利さを感じたのかな。神の国の福音を知らせるという務めは人々の関心とはずれていたのでしょうか。)
9月1日 今日は集会祭儀で久しぶりに司会をしたら、あちこち間違いだらけで、やはり教会を怠けている結果と納得。司式と言われていたのが、司会と名称が変更になったみたい。でも正式な任命書を見たら司会者となっていました。集会祭儀の印刷物が間違っていただけか。「司式者」と言うのと「司会者」と言うのとで、気持ちがだいぶ違うという自分のこだわりにびっくりです。集会祭儀の式次第に沿って行うこともかなり難しい。今日のファリサイ人のように規則にのっとっていくのを体現しているような感情。三度ほど準備をしたはずなのに自分の不完全さを再認識しました。
8月11日 今日は千葉神父様の司式で、終わった後は皆さんと食事会でした。こうして神父様を囲んで食事をして、スイカを食べて、コーヒーを飲むと自然に話がはずみますね。今度から皆さんの写真を展示するかな。昔ながらの方法が一番かも。



8月6日 使徒ペトロの手紙 愛する皆さん、わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から「これは私の愛する子。私の心に適う者」と言うような声があって、主イエスは父である神から誉と栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、予言の言葉は一層確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に昇る時まで、暗いところに輝くともしびとして、どうかこの予言の言葉に留意してください。(あ、そうなんだ。作り話ではないという言葉。信仰の原点ですね。現代には奇跡はないのですけど)
8月2日 マタイと言う方は徴(取)税人、一般的には民衆には嫌われ者です。イエス様がこのような人や罪人などを大切にするため人々は不思議に思っている話が多いですね。新約聖書のトップにマタイの福音が出てきます。キリストの様々な奇跡や民衆が集まってきて、たとえ話を数多くする会話が出てきます。でもご本人のことは僕もあまり知りません。本は多く出版されているようですけど。天国の話のたとえ話はまだよくわからないので、ちょっと勉強してそのうちお話ししたいです。
7月24日 マタイによる福音(13章)
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まってきたので、イエスは船に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種をまく人が種まきに出て行った。撒いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いので、すぐ芽を出した。しかし、日が昇ると、焼けて根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、よい土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。耳のあるものは聞きなさい」(このお話も有名ですね。同じ種でも撒かれた場所によってはたくさんの実を結ぶという話です。私たちは種なのか、土地の良さなのか、ちょっとわかりません。そこで次の言葉を読みましょう。
「だから、種をまく人のたとえを聞きなさい。誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪いものが来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけのところに蒔かれたものとは、み言葉を聞いてすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、み言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、み言葉を聞くが、世の想い煩いや迫害が起こると富の誘惑がみ言葉を覆いふさいで実らない人である。よい土地に蒔かれたものとはみ言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである。」(な~るほど!種はわたしたちなんだな)
7月15日 聖ボナベントゥラ司教教会博士。1218年ころ、中央イタリアのトスカーナのバニヨレジオで生まれる。パリで哲学と神学を修め、フランシスコ会に入り、教授資格を取得。フランシスコ会員たちに哲学と神学を教え、大きな成果を収めた。やがて同会の総会長に選ばれ、分別と英知をもって、会を治め、ついにアルバーノの司教枢機卿に任命された。1274年リヨンで死去。
なぜこの記事を紹介したかと言うと、小学生のころ、帯広の教会はイタリア人の神父様が司祭でしたが、その神父様の名前はボナベントウラ・トヌッテイと言う名前の神父様でした。かわいがってくれていたのかよくほっぺをつねられた経験があります。イタリアに帰る船旅に侍者をしていた僕に一緒に帰ろうと、誘われました。そうしていたら僕はどうなっていたかな。特別な思い出のある名前でしたね。
6月30日 今日はベトナムの神学生が司式をしました。その後は習慣化しつつあるコーヒータイムです。



6月29日 マタイによる福音 イエスは、フィリッポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『選者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』(旧約聖書の預言者)と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』(旧約聖書の「エミリヤ書」の預言者)とか、『予言者の一人だ』と言う人もいます。イエスは言われた。「それではあなた方は私を何者だというのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア(油を注がれたもの)、生ける神の子です」と答えた。するとイエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会をたてる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国のカギを授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でも繋がれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(キリスト様から教会を継ぐことを宣言された人なんですね。)
6月23日(日) マルコによる福音 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを船に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの船も一緒であった。激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちは溺れても構わないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風は止み、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じていないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖でさえも従うのではないか」と互いに言った。(奇跡は信仰の決定的な出来事になりますが、弟子たちと一緒で日常的にはないですよね)
6月21日 マタイによる福音(マタイ6・24~34) その時、イエスは弟子たちに言われた。「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。あなた方は、鳥よりも価値のあるものではないか。あなた方の内誰が、思い悩んだからと言って、寿命をわずかでも伸ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父はこれらのものが皆あなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで充分である。」(凡人としては、毎日生きていることだけで、様々なことで悩んでいますね。衣食住の問題は日常的ですし、人間関係や仕事関係、過去のことや未来のこと、数えきれないくらいありますね。天国は遠いな)
6月16日 マルコによる福音 その時、イエスは人々に言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種をまいて、夜昼、寝起きをしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速鎌を入れる。収穫の時期が来たからである。」さらにイエスは言われた。「神の国を何に例えようか。どのようなたとえで示そうか。それはからし種のようなものである。土に蒔くときは地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは人々の聞く力に応じてこのように多くのたとえでのみ言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
6月16日 今日は集会祭儀です。自分の気持ちが沈んでいるときは福音の紹介ができないですね。教会に行きますか。皆さん、こういう日を待っていたのですね。

6月10日 今日は「マタイによる福音」という有名な福音を紹介します。
その時、イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え乾く人々は幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐みを受ける。心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(山上の垂訓)として有名ですね。現世の中で様々な苦しみの中にある人々は、それでもなお、柔和でいたり、憐れみ深い人であったり、心の清い人であったり、平和を実現するする人々は、天の国はその人々のものになる、と言うことでしょうか。それにしても心の貧しい人とはどういう方でしょうか。自分の弱さ足りなさを謙虚に認めることができる人ですか)
6月9日 「毎日のミサ」の本を紛失しましたが、出てきたので再開できます。「すべての善の源である神よ、わたしたちの祈りに耳を傾けてください。あなたの息吹を受けて、わたしたちがキリストの教えに心を開き、愛の実践に励むことができますように。聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
6月2日今日は集会祭儀でした。僕が司式をしましたが、何かしら間違えます。今日は「共同祈願」についてお話しします。カトリック教会は「祈りの教会」とも呼ばれることがあります。信者が一緒に祈りの文を読む・聖歌を歌うことが当たり前になっています。今週はまず第1朗読者が壇上に上がり、「出エジプト記」を読み、続いて第2朗読者が「ヘブライ人への手紙」を読みます。司式者が「マルコによる福音」を読みます。続いて司式者から「キリストの聖体」についてお話ししました。そのあと共同祈願と言うのがあります。司式者・信者ともに祈りを捧げます。これらは決められた一連の用意された「聖書と典礼」と言うプリントを基に進行します。ですから信者も司式者も全員が集会祭儀に参加し、声を出してキリスト様に祈ります。毎週新しい祈りの文章が用意されていることはすごいです。1年間隔で言うとキリストの生涯や旧約聖書・新約聖書を基にされていることが多いですので、繰り返される部分が多くなりますが、参加した皆が声を出して祈ります。カトリック教会を訪問された未信者さんが祈りや聖歌を聞いて「感動した」ということも聞いたことがあります。信じる・信じないは心の問題ですが、「心を一つにして祈る」ことはほかの宗教も同じです。
5月26日 三位一体について 今日は千葉神父様の説教でこの「三位一体」についてのお話がありました。神学生の時にこの「三位一体の神」は神学生たちを悩ませた言葉だそうです。僕は幼児洗礼でしたが、人間には理解ができない神の言葉だとも聞いていました。十字を切りながら「父と子と聖霊の御名によって。アーメン。」と言う言葉は信者が絶えず口にします。今日は三位一体の主日と言うことでイエズス会の司祭 小倉康久さんが「聖書と典礼」(2024.5.26)に書いていました。「その本質は「私と神のペルソナ(位格)との交わりです。キリスト教信仰の核心はこの「神のペルソナ(位格)との交わりにこそあると思います。私たちはある時は父なる神に、ある時は御子イエスに、ある時は聖霊に向かって祈ることがあるでしょう。しかし、わたしたちが、父、子、聖霊のどのペルソナに向かって祈っていても私たちは唯一の神に祈っていることがわかっていますし、父・子・聖霊のそれぞれのペルソナが愛のうちに交わっていること(対他性と一性)を「信仰の感覚」のうちに触れている(知って)います。」と述べています。ちょっとわかったような?。次元は違いますが、わたしは元教師ですし、同時に町内会の会長やほかの役職も兼ねています。神は神であると同時に、キリスト役や聖霊役を果たしています。それは愛の交わりの神秘だそうです。ちなみにネットではペルソナは育毛剤やアニメ、さらにはユングの心理学用語で仮面を意味する外的側面や内側に潜む自分など、まったく異なった意味にも使われているようです。
5月20日 教会の母聖マリア マリアはキリストが十字架で息を引き取る前にあがなわれた人々の母とされた。そのため、聖母マリアには「教会の母」という称号が与えられた。聖パウロ6世教皇は、1964年11月21日に行った第二バチカン公会議の教父たちに対する演説の中でこの称号を荘厳に認め、「すべてのキリスト者が、最も甘美なこの称号をもって、今後一層の神の母に敬意を払うよう」定めた。(マリア様に対する正式な敬意は意外と遅かったのですね。)
5月17日 集会祈願 永遠の父よ。あなたは、御子キリストの昇天後、約束された聖霊を送って、永遠の命の門を開いてくださいました。この偉大な秘跡にあずかる私たちが、信仰を深め、心を込めてあなたに仕えることができますように、聖霊による一致の内にあなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエスキリストによって。アーメン。(父と子と聖霊という三位一体について一般にはわかりずらい話が出てきています。天の神様がキリストを地上に遣わされて、キリストが天に昇天後は、今度は聖霊が地上に送られてくるそうです。)
5月13日 最近、大麻市内の新しい役割があり、様々な会合・総会に出席したりして、急に忙しくなりました。借りている裏の畑も返却することにしました。北広島の畑の種まきも遅れがちです。会議は夜になることが多く、また総会はその後に懇親会があり、昼間の場合はノンアルコールで対応していますが、体調の変化を招くので注意しています。会議が増えると運動のできなくなり、これも悪影響ですね。土曜、日曜日は特に会議が多いので、教会活動にも影響が出てきていますね。聖書の紹介は、どの程度読んでいただいているのかわかりませんが、出来るだけ頑張るつもりです。
5月12日 マルコによる福音 その時イエスは11人の弟子たちに現れて言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって、悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手でヘビをつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方弟子たちは出かけて行って、いたるところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(解説しずらいですね。弟子たちがいろいろな国の言葉で宣教できるようになったということがありましたね)
5月9日 ヨハネによる福音(16・16-20) そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのあるものは互いに言った。「『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とかいっておられるのは、なんのことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのかわからない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなた方は泣いて悲嘆にくれるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(キリストの復活後のお話はキリストがやがて天に帰るお話ですね。でもわかりずらい話です)
5月5日 ヨハネによる福音(ヨハネ15・9~17) その時、イエスは弟子たちに言われた。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。私の愛にとどまりなさい。私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた方も、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。私があなた方を愛したように、互いに愛しあいなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、わたしはあなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方がわたしを選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって、父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである。互いに愛しあいなさい。これがわたしの命令である」(こんな昔の話なのに愛について話されるとはすごいですね。まさに愛の宗教ですね)
5月3日 聖フィリポ 聖ヤコブ使徒 フィリポはベトサイダに生まれ、はじめは洗礼者ヨハネの弟子であったが、のちにキリストの弟子となった。キリストの従兄弟のヤコブはアルファイの子で、エルサレムの教会を治め、「ヤコブの手紙」の著者である。厳しい禁欲の生活を送り、多くのユダヤ人をキリストへ導いた。62年に殉教した。(毎日の読書)
5月1日 ヨハネによる福音 その時、イエスは弟子たちに言われた。「私はまことのブドウの木、わたしの父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝は皆、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものは皆、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。私の話した言葉によって、あなた方はすでに清くなっている。私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ブドウの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。私はブドウの木、あなた方はその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。私につながっていない人がいれば、枝のように、外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなた方がわたしに繋がっており、わたしの言葉があなた方の内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(有名な言葉ですね。弟子たちに対して「私の言葉があなた方の内にいつもあるなら願いはかなえられる」そうです。毎日とはいかない自分ですが)

4月25日 マルコによる福音 その時イエスは11人の弟子に現れて、言われた。「全世界へ行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしを行う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手でヘビをつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、いたるところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らが語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(主イエスが天に上り、いよいよ弟子たちが活躍します。)
4月16日 ヨハネによる福音 その時、群衆はイエスに言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。私たちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」するとイエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」そこで彼らが、「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と言うと、イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して乾くことがない。」(群衆は結構図々しいですが、比ゆ的な言葉はなかなか理解できないですね)
4月10日 ヨハネによる福音 神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じるものは裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の御独り子の名をを信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも暗闇を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(時々わかったような、わからないような)
4月7日 ヨハネによる福音 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。そういって、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が許せば、その罪は許される。誰の罪でも、あなた方が許さなければ、許されないまま残る。」12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「私は主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手にくぎの跡を見、この指を傷跡に入れてみなければ、また、この手をその脇ばらに入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸には皆カギがかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じないものではなく、信じるものになりなさい。」トマスは答えて、「私の主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(結構有名な箇所ですね。私がもしトマスだったら、やはり実際に見ないと主の復活は信じられなかったでしょうね)
4月1日 復活の主日について 31日に復活のミサがありましたが、そこで使徒言行録が宣べられました。ペトロが口を開きこういった。「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に表してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をした私たちに対してです。そして、イエスは、御自分が生きているものと死んだ者との審判者として神から定められたものであることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと私たちにお命じになられました。また予言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の許しが受けられる、と証しています」(キリストを信じるものが赦しを受けられると。そうなんだ、結構限定されているようですね)
3月31日 キリスト様ご復活の日 イエス・キリストの復活をお祝いして、ささやかな昼食会。そして今日司祭になられてはじめてのミサを司式された千葉神父様の歓迎会も兼ねました。

3月28日 最後の晩餐日 夜7時からのミサでした。侍者としては3人でお手伝いをしました。松村神父様のお話は僕的にはとても真剣に聞かせてもらいました。キリスト様がこの世にお生まれになって、十字架に磔になる、そのことは神様の御業を完成させるためのものであったこと、人類に対する愛そのものを示されたとのお話だったかと。記録ではなく記憶に残りましたね。聞いたことをすぐ忘れますので、記録に撮っておきたいですね。本当はその場でメモしたいのですけどね。(この世の終わりの裁きと言うのはイエス・キリストによる自己犠牲そのものによって、人類皆が許されるということにつながるということかな)
3月27日 使徒パウロのフィリピの教会への手紙 イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(神にささげる捧げものが羊なのはまだわかりますが、人間イエス・キリストであるという考え方はなかなか理解できないですね。)
3月24日 受難の主日です。イエス・キリストが十字架に磔になり、3日目に復活をするというキリスト教にとって最も大きな出来事が控えています。28日が最後の晩餐、29日が主の受難日です。来週の31日(日)は復活の主日(復活徹夜祭)になります。イースターと言って卵を配ったりしますね。卵はある意味復活の象徴ですね。
3月23日 カトリック大麻教会について 日曜日(主日日)は朝11時~12時ころまでは毎週ミサがあります。神父様不足のため1周目と3週目は基本的に神父様は来られませんので(神父様は複数の教会を受け持っていますので、毎週は来られません)そのため信者のみで集会祭儀と言う形で祈りの機会を設けています。司式は信者が行っています。昔は教会には神父様が住んでおられましたが、現在はそのような形にはなっていない教会が多いですね。大麻教会は藤認定こども園と接していて、そのため幼稚園児の行事に使われることも多いです。教会としては曜日的には基本的に水曜日にミサがあります。その時は神父様が来られます。そのほか信者の方が教会の掃除とか様々な活動拠点として使います。
3月21日 ヨハネによる福音 その時、イエスはユダヤ人たちに言われた。「はっきり言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊にとりつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、予言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『私の言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないのか。予言者たちも死んだ。いったいあなたは自分を何者だと思っているのか。」 イエスはお答えになった。「私が自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。私に栄光を与えてくださるのは私の父であってあなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはこの方を知らないが、わたしは知っている。私がその方を知らないといえば、あなたたちと同じく私も偽りものになる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」するとユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。(やはり、その言葉は理解できないですよね。)
3月19日は 聖ヨセフの日 3月19日にヨセフの記念を行う習慣は十世紀の西方教会の教会暦に見られる。処女マリアの夫ヨセフは、聖家族の長として、イエスを守す務めをゆだねられていた。教会は、ナザレの聖家族の保護者であったヨセフを、キリストの体である教会の保護者として崇敬している。
マタイによる福音 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアとよばれるイエスがお生まれになった。イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は精霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおりにした。
3月15日 答唱詩編 主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。 主のまなざしは正しいひとに、耳は彼らの叫びに。主は正しい人の声を聞き、悩みの中から救ってくださる。主は虐げにあう者のそばにおられ、失意の人を支え、主はそのしもべの魂をあがない、より頼む人を滅びから救われる。
3月10日 今日のミサは司教様でした。説教は「裁き」と言うことでした。この世の終わりにイエス様が裁きをされるということに僕たちは恐れていますが、司教様はそれは決して弾劾ではないとお話しされました。むしろ「許し」のような感じでお話をされていました。内容的には1日たってもうわすれてしまったことに後悔です。誰かに教えてもらおう。 その後、松村神父様から返事がきた。司教様のお話は頭の中のお話で、記録はないそうです。とても残念ですね。


3月7日 「キリスト信者の悩み」 森田健児神父のお話(おとずれ629号) このお話は僕たちの日ごろの悩みを的確に指摘しています。キリスト信者の一つの悩みは自己評価の低いことだそうです。その理由の一つは①誠実に生きようとする人は自分をよく見つめる。②キリストの教えを追い求める人はより高い理想を求める。心の中の罪さえ見つめる③私たちが日本人だということ。日本人は自己肯定観が低い。④自己否定感を持つと神に向かう時に後ろめたさを感じ、一層キリスト信者を苦しめる、と指摘しています。そして、主はおっしゃってくださいます。あなたの弱さはあなただけのせいではない。自分の弱さに悲しみ過ぎず、自分を責め過ぎず、わたしにゆだねなさい、自分を改めようと努め、一生懸命生きようとするならそれだけで十分ではないかと。(本文は手に入れば、とても良いお話なのでまた紹介します)
3月6日 詠唱 主よ、あなたの言葉は霊であり命です。あなたは永遠の命の言葉を持っておられる。
2月29日 今日はルカによる福音の中で、死後の世界についてイエス・キリストが話しています。長いので端折りますが。金持ちは毎日ぜいたくな暮らしをしていた。一方ラザロと言うできものだらけの貧しい人、この二人の死後の比較です。この貧しい人はどうやら天国にいるらしい。一方の金持ちは煉獄かな。苦しんでいます。そこで金持ちだった人が「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」と頼むと、「お前は生きている間に良いものをもらったが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今はここで彼は慰められお前はもだえ苦しむのだ」。そこで彼は兄弟たちにこんな苦しい場所に来ないように言い聞かせてくださいと頼みます。しかし、「お前たちの兄弟たちにはモーセと予言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」「もしモーセと予言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあってもその言うことを聞き入れはしないだろう」 (金持ちは天国の道は遠いというお話ですが、現世での生き方を変えなさいということですか。当時の貧富の差、弱者の置かれている事情・生きていても未来を描けない差別された人々、こういう当時の社会を理解する必要も感じますね)
2月26日 ルカによる福音 その時、イエスは弟子たちに言われた。「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることはない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなた方も罪人だと決められることはない。赦しなさい。そうすればあなた方も赦される。与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りを良くして、懐に入れてもらえる。あなた方は、自分の量る秤で量り返されるからである。」 (今の時代、裁かず、罪人と決めず,すべて赦す人間になれるだろうか。教会に入った泥棒に「あれはあげたものだ」と言えるだろうか。自分を棚に上げているのだろうか。)
2月25日 マルコによる福音 その時イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤ(預言者を代表)がモーゼとともに現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロはどういえばよいのか、わからなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲(神御自身)の中から声がした。「これは私の愛する子、これに聞け」弟子たちは急いで辺りを見渡したが、もはや誰も見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活すとはどういうことか論じ合った。
マルコとはどういう人物か 世界百科事典・日本国語辞典などによると、1C半ばの新約聖書に言及される初代のキリスト教徒の一人。9Cに遺体がアレクサンドリアで発見され(殉教)、海路ベネチアへ運ばれ、サン・マルコ大聖堂が建てられたそうだ。エルサレムで生まれたユダヤ人。フブライ語でヨハネと呼ぶそうだ。
2月24日 マタイによる福音 その時イエスは弟子たちに言われた。「あなた方も聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけを愛したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。」 (敵が悪魔的な人ならどうなるのか。敵なる人がその罪に気づいていないとして神に許しを願うのかな。)
2月20日 今日はマタイによる福音の中で、主の祈りが紹介されています。イエスは弟子たちに言った。あなた方が祈る時に、こう祈りなさい「天におられる私たちの父よ、皆があがめられますように。御国が来ますように。み心が行われますように、天におけるように地の上にも。私たちに必要な糧を今日与えてください。私たちの負い目(罪)を許してください。私たちも自分に負い目をある人を許しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪いもの(悪)から救ってください。」(私たちの祈りの中で最も重要とされている「主の祈り」です。現在は少し文章は異なっていますが、中身は同じです。)
2月18日 マルコによる福音 そのとき霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこに留まり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われた。
イエスはガリラヤへ行き2月18日 四旬節第一主日 集会祈祷 全能の神よ、年ごとに行われる四旬節の典礼を通して、わたしたちに、キリストの死と復活の神秘を通して、わたしたちに、キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。日々、キリストの命に生きることができますように、聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエスキリストによって。アーメン
2月16日 聖句について (「毎日のミサ」という本があり、ほぼ毎日聖書の言葉に接します。聖書そのものは2000年もの前の出来事を中心としているので、わからない部分も多いですね。時代背景もわからないので理解できない部分があっても仕方がないですが、それを積極的に説明する努力もカトリック教会には求められますね。わが国で信徒数が少ないのも、そういう努力や今の時代に合った宗教観も求められているかな。日本の事例で言うと、キリシタンに対する弾圧がありましたが、弾圧されても信仰を捨てなかった人たちが多くいました。今の時代から見ると、なぜあのような弾圧の中で信仰を捨てなかったのか。すごいとしか言えないけど、本当にそのことを理解しているのかと言えば、多分理解していないですね。それは個人の信仰の深さの問題なのかな。)
2月15日 ルカによる福音 その時イエスは弟子たちに言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排除され殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背をって、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を亡ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」
2月7日 集会祈祷 new! 聖なる父よ、あなたは倒れていた世界をキリストの死によって、新しい命に立ち上がらせてくださいました。信じるものを罪の束縛から解放し、終わりのない喜びを味合わせてください。聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン
2月6日 聖アガタおとめ殉教者 3世紀の方。シチリア島のカタニアの貴族の家に生まれた。教養もあり、大変美しかったアガタは,島の知事から結婚を申し込まれたが拒否したため怒りを買い、キリスト教であった彼女は法廷に引き出された。当時はローマ皇帝によるキリスト教徒への弾圧が激しく、信仰を捨てるためアガタは乳房を切り取られるという拷問を受けた。衰弱してもなお祈りを続ける彼女のところへ聖ペトロが現れて励まし、奇跡的に傷が治ったといわれる。決して信仰を捨てない彼女はついに炭火と焼けつく石の上に引きずられ牢獄の中で息を引き取ったそうです。(アガタとは、「よいもの」の意味である。キリスト教徒はずいぶんと迫害を受けて殉教もあったようですね。たまたま昨日、札幌司教区からメールが来て、フランシスコ修道会より、シスター・M・アナスタジア福井みつ子さん94歳の帰天の連絡が来て、約68年にわたって奉献生活をされたとありました。ある意味自分の人生すべてを神にささげるというのは殉教ですね。月形新田マリア院帰天されたとありました。ご冥福を祈ります。)
2月3日 高山右近 殉教者の記念日 new! 1552年 摂津の国(現在の大阪府豊能郡)に生まれ、11歳で家族とともに受洗。のちに高槻城主となり、織田信長、豊臣秀吉の重臣として仕えた。また宣教師を助けながら、領内で福音宣教を積極的に進めると同時に、慈悲のわざにも力を尽くした。1587年。伴天連(ばてれん)追放令に伴い、秀吉から棄教を強く命じられたが応じず、大名の地位を追われた。加賀の前田家に保護され、金沢の地で福音宣教に励んだ。江戸幕府のキリシタン禁教令により、1614年にマニラに追放され、翌年2月3日、同地で逝去。2017年2月7日、大阪で列福された。(ほんの近年だったんですね、ビックリ)
1月29日 神父様のお話
(昨日のミサでは「カトリック教会では悪魔の存在を信じています」とのお話がありました。天使と悪魔、究極の存在です。最近もキリストのお名前を祈りに出しながら、戦争を仕掛け、たくさんの人々を殺したり、人質に取ったり、武器を販売したりする国や人たちがいます。この国や人たちはまさに悪魔的です。キリスト教はその根本には「人類への限りない愛」で満ち溢れているはずですね。人間はいつどこで悪魔に変身するのかな。)
1月25日 今日の教会

私がこのページを開設しているのはもちろん教会の行事や祈りなどをお知らせすることですが、自分自身の生き方に向き合うためです。私たちの世界は矛盾にあふれています。戦争、殺戮、個人の尊厳を奪っていたり、平和とはとてもかけ離れています。その世界から逃げるのではなく、平和を願い、僕自身もホームページで何かしら発信し続けていくことの意味を問いたいのです。(11.19)
1月25日 聖パウロの回心(聖句は長すぎてちょっとはしょりました)
キリストの弟子たちを迫害していたサウロ(のちのパウロ)はダマスコに向かう途中、復活したキリストと出会い、迫害者から信仰者に変わった。パウロの回心をこの日に記念することの起源は定かではないが、5世紀後半の「ヒエロニムス殉教録」にはすでに記載されている。
1月24日 マルコによる福音
その時イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まってきた。そこでイエスは船に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種をまく人が種まきに出て行った。撒いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで、土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、芽がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった。」そして「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われた。…良い土地に撒かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100の実を結ぶのである」
1月21日 苦しんでいる方へ
(石川県の被災地の方々はもちろん、ほかの地域の方で様々な苦しみを持っている方々、日々の生活の中で様々な解決できない悩みを持っている方々、一人だけで、どうして自分だけと思っておられる方も多いと思います。でも、僕も悩みは多少ともあります。残念ながら祈りだけでは解決しません。でも祈ります。それは毎日の生活の中で少しでも心の中の苦しみを軽減するために祈りの中で救いの道を探るからです。人間はどうして過去を捨てきれない動物なのかな。人間はどうして罪意識を持つのかな。ほかの宗教と違い、カトリック教徒はいつも罪意識を持ちます。時々カトリック教会の厳格な罪意識を忘れたい気持ちにさえなります。これは我々カトリック教徒の意識です。一般の方の中には今回の地震のように何の罪意識もない中で、突然身の回りに起こった信じられない悪夢のような事件や事故に見舞われて途方に暮れている方もたくさんおられます。このような方には神も仏もない状態に落ちいっていることでしょう。そんな方には我々はほとんど無力です。宗教の無力を感じます。ですけど、そういう方のために祈りを捧げたり、何らかの支援をしたりできます。一人一人の支援する気持ちは小さいものでもたくさんの方の気持ちはいつか必ず苦しんでいる方に届くはずだと思っています。教会で皆さんと一緒になって祈ったり、支援金を集めたりできます。私たち自身もほとんど無力ですが、苦しんでいる方々への寄り添う気持ちをいつまでも忘れないでいたいものです。)
1月20日 集会祈祷
恵み豊かな神よ、あなたを仰ぎ見る民の、心からの願いを顧みてください。私たちが何をすべきかを知り、果たすべき使命を全うすることができますように。聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
1月17日 (毎日のように雪が降り、江別市も降雪で全国放送されたようです。私も毎日排雪作業を継続中です。今日も軽トラで3度雪を捨てに行ってきましたが、午後には2階の雪捨てを家内としなければなりません。いやいやながら働き者にならざるを得ません。おかげで、教会にもなかなか行けないので、教会の雪はどうなっているのか気がかりです。)
1月13日 マルコによる福音
その時イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まってきたので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座ってるのを見かけて、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席についておられた時のことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従ったのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
1月7日主日 災害被災者のための祈り
父である神よ、すべての人に限りないいつくしみを注いでくださるあなたに、希望と信頼をこめて祈ります。災害によって、苦しい生活を送り、不安な日々を過ごす人々の心を照らし、希望を失うことがないように支えてください。また、亡くられた人々には、永遠の安らぎをお与えください。すべての人の苦しみを担われたキリストが、いつもともにいてくださることを、祈りと行動によってあかしできますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会認可)
1月9日 マルコによる福音
イエスは、安息日にカファルナウムの会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになられたからである。その時、この会堂にけがれた例にとりつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け。」とお叱りになると、けがれた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出ていった。人々は皆驚いて、論じ合った。「これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人がけがれた霊に命じると、その言うことを聞く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々まで広まった。
1月5日 使徒ヨハネの手紙(ヨハネ3・11~21)
愛する皆さん、互いに愛しあうこと、これがあなた方の初めから聞いている教えです。カインのようになってはなりません。彼は悪いものに属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなた方を憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのないものは、死にとどまったままです。兄弟を憎むものは皆、人殺しです。あなた方の知っている通り、すべての人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、、兄弟が必要なものに事欠くのを見て同情しないものがあれば、どうして神の愛がそのような者のうちにとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって、誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神のみ前で安心できます。心に責められることがあろうとも、神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神のみ前で確信を持つことができるのです。
1月1日 晴 江別市は今日は結構冷えています。マイナス10度以下です。昨日は一歩も外に出歩かなかったので、今日は少し歩きます。今朝の食事もお酒は飲まなかったので自由です。さすがに教会にはいきませんけど。11,000歩
1月1日(毎日のミサ) ルカによる福音 ルカ2・16~21
その時羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て彼らはこの幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日経って、割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは胎内に宿る前に天使から示された名である。
12月28日 マタイによる福音
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「生きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した。」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちに騙されたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、ひとり残らず殺させた。こうして、予言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく鳴き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。」
6世紀ころから、教会は主の降誕の季節に聖なる幼子たちの殉教を祝ってきた。ヘロデによって殺されたこれらの幼子たちは贖われた人の初穂である。イエスのために命をささげた彼らは、言葉を話せなかったが、その死によって信仰を証ししたのである。
12月26日 聖ステファノ殉教者
今日はすでにキリストの誕生を引き続き祝う日と思っていたけど、「最初の殉教者、聖ステファノを祈念して祈る日となっています。彼は最初の殉教者でその証は教会の模範として、常に大切にされてきた。彼は、使徒たちを補佐するために選ばれた7人のうちの一人で、やがて福音宣教にも携わった。主・キリストの受難に倣い、自分を迫害する人々に最後まで愛を示して、殉教した。
12月25日 (今日は教会の仲間とコーヒーとケーキを食べました。とてもお元気な方です。)
12月24日 メリークリスマス!
(今日の夜中にはイエス・キリストの誕生日です。ほとんどの皆さんにとってはクリスマスは、プレゼントをもらったり、ケーキを食べる日ですね。何はともあれ、イエス・キリストの誕生を祝うのは喜ばしいことではありますね。世界中の人々が楽しむ日なんて幸せなことですね。パーティ券で裏金を作ったり、戦争で人々が死んだり、飢えたりしている中でも一瞬忘れましょう。いやいや、それはできないことですね。キリストの誕生日はイエス・キリストの貧しさを思い出させるし、それからの人生、人類を救済することを連想させますね。)
12月22日 ルカによる福音
その時、マリアは言った。「私の魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからである。今から後、いつの世の人も私を幸いな人と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことしましたから。その御名は尊く、その憐みは代々に限りなく、主を恐れるものに及びます。主はその腕で、力をふるい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、憐みをお忘れになりません。私たちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリザベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
12月20日 ルカによる福音
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレという町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである乙女のところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方といわれる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を収め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なるもの、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6か月になっている。神にできないことは何ひとつない。」マリアは言った。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで天使は去っていった。
12月10日(待降節第2主日) マルコによる福音
神の子イエス・キリストの福音の初め。 予言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」 その通り、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「私よりも優れた方が、あとから来られる。わたしは、かがんでその方の履物をひもで解く値打ちもない。私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
12月3日 マルコによる福音(マルコ13・33~37)
その時、イエスは弟子たちに言われた。「気を付けて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなた方には分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏のなくころか、明け方か、あなた方には分からないからである。主人が突然帰ってきて、あなた方が眠っているのを見つけるかもしれない。あなた方に言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
今日の個所に何度も繰り返される言葉は、待降節第一主日のテーマをはっきりと示す。待降節とは神の到来を待ち望む季節であり、その到来に向かって生きる態度が「目を覚ましている」ことである。
11月28日 苦しんでいる人たちへ
(僕自身決して何事もなかった人生ではありません。よく他人は僕に対し、「何事もなく、すべてすいすい解決して生きている」ような言い方をします。顔と声が人によっては威圧的に見えるのも一因です。それは遺伝的なものなのでどうしようもないです。ほかの人もその姿かたちから誤解される方もおられるでしょう。また人は皆人生上、心の奥底にしまっている悲しい・苦しい様々な事柄・歴史があることでしょう。生きている限り、いろいろな失敗があるのが普通ですし、むしろ成功体験は少ないのではないでしょうか。人生ままならないのです。心の持ちようは人によって異なっています。僕自身は過去の事柄については、もうどうしようもないことですが、心の中で度々復活します。でも心の中にしまっておくしかないのです。ほかの人にべらべらお話しすることはできません。皆さんもそうではないでしょうか。でも、何かしら心の中での重荷を軽くすることはできないでしょうか。 僕の場合、言葉は悪いけど、「蓋」あの「臭いものには蓋」ですね。記憶は決してなくなるものではないけど、しばらく心の奥にしまっておくしかないのです。このページで予想される答えは「神様にすがる」ことかもしれないけれど、神頼みはあったとしてもちょっと違うかな。神様には違う分野で活躍してほしいな。神様も世界中の人たちからたくさん期待されすぎて困りますね。時間が解決するのを待つ。もちろん友人やほかの人たちに相談するのもいいでしょう。日ごろからいろいろな人たちとの交流をしたり、ボランティア活動に参加することもいいかな。ほかの人たちの奉仕活動などを通してほかの人たちの生き方や場合によっては苦しみを理解したりして、自分の生き方の参考にすることもいいかもね。)
11月12日の「聖書と典礼」より。
共同祈願 時間に追われ、生活に疲れている人々を支えてください。祈りのひと時を見出し、神のいつくしみに触れて心が癒されますように。