「おとずれ」など大型のファイルがあると早く限界に来ます。「カトリック教会と聖書1」は削除しましました。
2026年
3月17日 今日はこれまで大変お世話になってきた神父様たちとお別れの会をしました。私は役職者ではないのですが、参加させていただきました。思い出深い集まりでしたね。教会の神父様不足は深刻です。お一人で5~10教会を回ってミサを続けています。これがほんとの「神業」ですね。本当にご苦労様でした。


3月14日 ルカによる福音 その時、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人をみくだしている人々に対して、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取るもの、不正なもの、姦通を犯すものでなく、また、この徴税人のようなものでもないことを感謝します。私は週に2度断食し、全収入の10分の1を奉げています。」 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪びとの私を憐れんでください。』言っておくが、儀とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる。」
3月8日(日)今日は連続してミサの司会を頼まれましたが、お断りして今日はゆっくりしています。ちょっと精神的に疲れてしまって。
3月3日 おとずれ653号
3月3日 マタイによる福音 その時、イエスは群衆と弟子たちにお話になった。「律法学者たちやファリサイ派の人々はモーセの坐に着いている。だから、彼らがいうことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはいけない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場であいさつされたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなた方は『先生』と呼ばれてはならない。あなた方の師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上のものを『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父お一人だけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなた方の教師はキリスト一人だけである。あなた方のうちで一番偉い人は仕えるものになりなさい。誰でも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる。」(普段「先生」と呼ばれることが多い職業に着いていたが、信仰の世界ではごく普通の人間であることを承知しています。いや、自分の人生に様々な負い目も感じてきて生きています。過去はなくすことはできないけれど、その負い目は何かしら人々のために尽くすことがあれば、することで生きていくしかないかな。)
3月1日 今日は集会祭儀でした。終わってからコーヒーを飲みましたが、テーブルを少し小さなものに変えましたので、座りやすくなりましたね。


2月28日 マタイによる福音 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなた方も聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあるだろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶をしたところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全なるものとなりなさい。」(汝の敵を愛しなさい、という有名な言葉です。嫌な奴に会うと、すぐ悪口を言ったり排除しようとしたりする我々は時々この言葉を思い出さなければならないですね。神に真似をして完全なるものとなるように努力しなければならないですね)
2月26日 マタイによる福音。その時イエスは弟子たちに言われた。「求めなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。あなた方のだれが、パンを欲しがるものに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなた方は悪いものでありながらも、自分の子どもには良いものを与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は、求めるものに良いものを下さるに違いない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と予言者である。」(そういえば神父様は説教の中で求めつづけることが大切だとお話しされていましたね)
2月21日 ルカによる福音 その時イエスは、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい。」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の法律学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜあなたたちは、徴税人や罪びとなどと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」(これぞキリストの言葉ですね。徴税人が悪人だとは思わないけれど、当時は嫌われていた人々であったので、わかりやすい人種でした。自分の過去を悔い改めることが、天の国への道が開かれるということですね。)
2月19日 ルカによる福音 その時、イエスは弟子たちに言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、法律学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それからイエスは皆に言われた。「私についてきたいものは、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、私のために命を失うものは、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を亡ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(イエス様がご自分に起こることの予言をされましたが、皆はわかっていませんでした)
2月13日 私たちカトリック信者にとっては、パンと葡萄酒は日常的に出てくる言葉で違和感がないのですが、日本人にとってはパンはご飯(お米)、では葡萄酒は日本酒?葡萄酒は血になるので、比較できないですね。「命の源である父よ、あなたからいただいたパンと葡萄酒を捧げて祈ります。このとおとい秘跡の恵みによって、私たちの日々の生活が御心にかなうものとなり、まことの喜びに満たされますように。私たちの主イエス・キリストによって。」という言葉の違和感に時々気づかされます。また「いけにえ」という言葉にも時々その残酷な言葉として気づかされます。やっぱり、国の違いなのか、歴史の違いなのか。父は熱心な信者でしたが、晩年、「般若心経」が良いとか、カトリックは善悪とか決めつけるとか、天国・地獄・煉獄とかの区別があるとか、言っていましたが、日常的な祈りの中にそういう違和感に気づいていたのだろうね。
2月8日 おとずれ652号です。3月1日は集会祭儀ですが、十字架の道行があるので、10時10分に集合します。
2月11日 マルコによる福音 その時、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」イエスが群集と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなた方も、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」さらに次のように言われた。「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪は皆中から出てきて、人を汚すのである。」(ちょっと現代の感覚と違うのは仕方がないことかな。外から入るもので、耳から入るものの中には人の心を傷つけたり悪い食べ物もないわけではない。しかしここでは人間の悪い心の話をされている。)
2月8日 今日は食事が出ましたので、写真を撮りました。今日は韓国の神父様が二人来られてミサをしてくださいました。とてもフレンドリーな神父様です。ミサの後にみんなで食事をしました。






2月8日 マタイによる福音 その時、イエスは弟子たちに言われた。「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中にあるものすべてを照らすのである。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである。」(東京の大学院で学んでいたときに恩師が「地の塩になれ」と色紙に書いてくださいました。キリスト者ではなく、マルクス関係の方でした。宗教家でもありませんが、なぜか思い出に残っています。)
2月3日 今日は高山右近について、殉教者として紹介されています(「毎日のミサ」2月号)、この本で「ユスト高山右近殉教者」となっています。ユストは洗礼名かと思いますが、ジュスト(正義の人)とも書かれているので、ちょっとわかりません。1552~1615年、父は高山飛騨守、母マリア(洗礼名)の男3人、女3人の長男として生まれ、12歳の時に修道士ロレンソのもとで受洗(家族とともに)。21歳で高槻4万石の城主になる。織田信長の家臣となり、領主内に20余りの教会を建てたそうです。1587年 豊臣秀吉の伴天連追放令発布によって追放。加賀の前田家に保護。さらに1614年徳川家康の伴天連追放令によって国外へ追放されて、マニラに到着。熱病によって1615年2月帰天、63歳。当時としては結構な高齢者。2017年殉教者として列福。(600年後です。人の人生はわからないものですね。)大阪府豊能町のホームページなども参考
2月2日 今日は教会の周辺の雪かきをしました。特に灯油タンク周辺です。ここはどなたも除雪をしないので、灯油がなくなったかどうかさえ分かりません。かなり積もっていました。また、御聖堂灯油3台の排出口も雪が降ると心配になります。昨年は一度埋まって一酸化炭素中毒になりそうでした。恐いですね。


2月1日(日)今日は集会祭儀です。僕はお近所さんからのお誘いがなかったので、行きませんでした。今日は聖句をお伝えします。
マタイによる福音 その時イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。 柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。儀に飢え乾く人々は幸いである。その人たちは満たされる。哀れみ深い人々は、幸いである。その人たちは哀れみを受ける。 心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。儀のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。よろこびなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(僕自身何の価値もない人間ですが、福音を読んでこうしてホームページで紹介して、一人でもこのページん関心を持っていただく人がいれば、報われる思いがあります。ま、自己満足ですけど。イエス様の言葉を借りていますが。)
1月30日 マルコによる福音 その時イエスは人々に言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きをしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず、茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すると早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」さらに、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえでみ言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(からし種のお話は有名ですね)
1月29日 イエスが一人になられた時、12人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこでイエスは言われた。「あなた方には神の国の秘密が打ち上げられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして、立ち帰って許されることがない」ようになるためである。」また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。ではどうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこにみ言葉が蒔かれそれを聞いてもすぐにサタンが来て彼らに蒔かれたみ言葉を奪い去る。石だらけのところに蒔かれるものとは、こういう人たちである。み言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いてもあとでみ言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐつまづいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちはみ言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、み言葉をふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の実を結ぶのである。」(う~ん、僕は石だらけのところの種だな。)
1月28日 マルコによる福音 そのとき、イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まってきた。そこで、イエスは船に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスは例えでいろいろ教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種をまく人が種を撒きに出ていった。撒いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、医師だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると茨が伸びて多いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種はよい土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30杯、あるものは60倍あるものは100倍にもなった。」そして、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われた。(今日はここまで)
1月26日 ルカによる福音 そのとき、主はほかに72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に2人づつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。私はあなた方を遣わす。それはオオカミの群れに子羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持っていくな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人に留まる。もし、いなければ、その平和はあなた方に戻ってくる。その家に留まって、そこで出される食べ物を食べ、また飲みなさい。働くものが報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出されるものを食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国は近づいた』と言いなさい。」(さらに72人の弟子を任命したんだ。すごい人気だったのですね)
1月23日 マルコによる福音 その時、イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。そこで12人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして12人を任命された。シモンにはペトロという名をつけられた。ゼメダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名をつけられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それにイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。(12使徒を決めたお話です。)
1月18日 マタイによる福音 その時、イエスは弟子たちに言われた。見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなた方の天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人から褒められようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはならない。はっきりあなた方に言っておく。彼らはすでに報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれが、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(う~ん!さすがに自分の手はそうして善行を隠すことはできないと思うけど、ついつい善行はなんとなくお知らせしたいですね。)
1月13日 マルコによる福音 その時イエスはティルスの地方を去り、シドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群集の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」といわれた。これは「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いていった。「この方のなさったことはすべて、素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにして下さる。」
1月12日 今月のおとずれ651号です。
1月6日 マルコによる福音 その時、イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で回りの里や村へ何か食べるものを買いに行くでしょう」。これに対してイエスは、「あなたがたがかれらにたべものをあたえなさい」とお答えになった。弟子たちは、「私たちが200デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか。」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見てきなさい。」弟子たちは確かめてきて言った。「5つあります。それに魚が2匹です」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は100人、50人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ2匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、12の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が5000人であった。(パンを増やすことによってイエスは自分が預言者であることを示されたとのことですが、この奇跡は目の前で行われたので、びっくりですね。昔のお話ですけれど)
1月1日 今日はミサがありました。侍者の仕事があったので、行きましたけど、少し寒い日でしたね。初めて神父様と写真を撮りました。来られた方々は新年に神様への挨拶ですね。今日は手作りクッキーとコーヒーです。






2026年1月1日の「世界平和の日」教皇様のメッセージ
1月1日 ルカによる福音 その時、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉おけに寝かせてある乳のみ子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に収めて、思いめぐらしていた。羊飼いたちは。見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった。八日たって、割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(イエス様の生誕からイエスの名がつけられるまでのお話です)
12月28日 マタイによる福音 占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこに留まっていなさい。ヘロデが、その子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに現れて、言った。「起きて子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは死んでしまった。」そこでヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に帰ってきた。しかし、アルケオラが父ヘロデの後を継いでユダヤを支配していると聞き、そこへ行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。(ガリラヤはパレスチナに位置していて、現在のイスラエル北部ヨルダンの一部だそうだ。)
12月25日 今日はクリスマスのミサがあり、終わったらささやかなパーティです。藤幼稚園の子供たちがミサに参加して、いつもと違う若返りミサになりましたね。江別教会や小野幌教会の信者さんもたくさんお見えになりました。






12月21日 今まで教会での僕の役割は、集会祭儀での司会とミサの侍者、そして時々除雪のお手伝いやろうそく付けやろうそくの灯を消すお手伝いがありますが、来年はもうやめる方向で考えています。でも81歳の老人の出番を作っていただいたのは、大いに感謝しないといけないですね。信仰の薄い僕がいつまでもやれる仕事ではないですね。(問題は若い人たちがいないわけではないのに引き継いでいくシステムがないことかな。)
12月21日 マタイによる福音 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを受け入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことを実現するためであった。「見よ、乙女が身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は「神は我々とともにおられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。(このお話は処女マリアの懐妊として言い伝えられてきました。我々信者は信じていますが、私生児を生んだとも考える人たちも多いです。カトリックでは信仰の1丁目1番ですが、今ではあまり目くじらを立てることではないかもしれませんね)
12月17日 マタイによる福音 アブラハムの子ダビデの子、イエスキリスト様の系図が述べられています。マリア様まで数えて、42代の系図です。すごいですね。
12月14日 使徒ヤコブの手紙 兄弟たち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなた方も忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った予言者たちを、辛抱と忍耐の規範としなさい。(待降節だからでしょうか)
12月7日 おとずれ650号 2025年最後のお知らせです。松村神父様が月寒教会から小樽駅まで歩かれたそうです。使徒巡礼にたとえた歩きだったようですね。普段散歩していた僕もそういうことも考えて歩くといいのでしょうか。単なる散歩も黙想になりますね。少し考えさせられましたね。
12月7日 今日は久しぶりに集会祭儀で、司会をします。このところ体調がすぐれない日が続きましたので、そろそろ引退かな。1月1日の司会もあるので、それで最後にしようかな。若い人たちでお任せしてもいいのではないかとも思いますね。
11月29日ルカによる福音 その時イエスは弟子たちに言われた。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなた方を襲うことになる。その日は、地の表のあらゆるところに住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなた方は、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ついつい日常の事柄にとらわれて、主を忘れないようにしないといけないですね)
11月23日 ルカによる福音(23・35~43)その時、議員たちはイエスをあざ笑って、言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれたものなら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸い葡萄酒を突き付けながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」するともう一人のほうがたしなめた。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」そして、「イエスよ、あなたの御国へおいでになるときには、私を思い出してください。」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
10月31日 ルカによる福音 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。その時イエスの前に水腫を患っていた人がいた。そこで、イエスは法律の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは法律で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。するとイエスは病人の手を取り、病気を癒してお帰しになった。そして言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからと言って、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。(緊急の時はそれが優先されるのは当然ですね。原理主義者に対しての批判です。)
10月21日 ルカによる福音12・13~21 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない。』と思いめぐらしたが、やがて言った。『こうしよう。蔵を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産を皆しまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったい誰のものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」(いやはや今の時代は持っていた蓄えがどんどんなくなってきて、もはや蓄えがなくなってきている者にとってはどう考えるといいのだろうかな。)
10月12日 今日は久しぶりに教会に行きました。奇神父様のミサがありました。沖縄に行かれた方が帰天されたので、そのご家族が教会に来られて、皆で祈りを捧げました。










9月26日 ルカによる福音 イエスが一人で祈っておられた時、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆たちは私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』(旧約聖書の預言者)という人も、『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』という人もいます」。イエスが言われた。「それではあなた方は私を何者だというのか。」ペトロが答えた。「神からのメシア(救い主)です。」イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺され、三日目に復活することになっている。」(イエスの予言ですね。その時は弟子たちもよく理解していなかったようです。)
9月14日は「十字架称賛」の日だそうです。「毎日のミサ」で紹介されています。「エルサレムではすでに5世紀から、復活聖堂の献堂を記念する9月13日の翌日に、キリストの十字架を礼拝する習慣があり、これは次第に東方教会全体に広まった。ローマにこの習慣が取り入れられたのは7世紀になってからである。今日ではキリスト者の救いと勝利の希望であるキリストの十字架を思い起こす祝日である。」(キリストと十字架はそのまま我々信者にとっても救いの原点でもあるが、称賛日があるのですね。この文章を読むと教会も歴史的経過(事実)を考えないといけないですね)
9月14日 今日は韓国の神父様のミサがありました。皆さんの人気者の神父様です。ミサの後には昼食会がありました。




