「おとずれ」など大型のファイルがあると早く限界に来ます。「カトリック教会と聖書1」は削除しましました。
2026年
2月8日 おとずれ652号です。3月1日は集会祭儀ですが、十字架の道行があるので、10時10分に集合します。
2月11日 マルコによる福音 その時、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」イエスが群集と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなた方も、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」さらに次のように言われた。「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪は皆中から出てきて、人を汚すのである。」(ちょっと現代の感覚と違うのは仕方がないことかな。外から入るもので、耳から入るものの中には人の心を傷つけたり悪い食べ物もないわけではない。しかしここでは人間の悪い心の話をされている。)
2月8日 今日は食事が出ましたので、写真を撮りました。今日は韓国の神父様が二人来られてミサをしてくださいました。とてもフレンドリーな神父様です。ミサの後にみんなで食事をしました。






2月8日 マタイによる福音 その時、イエスは弟子たちに言われた。「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中にあるものすべてを照らすのである。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである。」(東京の大学院で学んでいたときに恩師が「地の塩になれ」と色紙に書いてくださいました。キリスト者ではなく、マルクス関係の方でした。宗教家でもありませんが、なぜか思い出に残っています。)
2月3日 今日は高山右近について、殉教者として紹介されています(「毎日のミサ」2月号)、この本で「ユスト高山右近殉教者」となっています。ユストは洗礼名かと思いますが、ジュスト(正義の人)とも書かれているので、ちょっとわかりません。1552~1615年、父は高山飛騨守、母マリア(洗礼名)の男3人、女3人の長男として生まれ、12歳の時に修道士ロレンソのもとで受洗(家族とともに)。21歳で高槻4万石の城主になる。織田信長の家臣となり、領主内に20余りの教会を建てたそうです。1587年 豊臣秀吉の伴天連追放令発布によって追放。加賀の前田家に保護。さらに1614年徳川家康の伴天連追放令によって国外へ追放されて、マニラに到着。熱病によって1615年2月帰天、63歳。当時としては結構な高齢者。2017年殉教者として列福。(600年後です。人の人生はわからないものですね。)大阪府豊能町のホームページなども参考
2月2日 今日は教会の周辺の雪かきをしました。特に灯油タンク周辺です。ここはどなたも除雪をしないので、灯油がなくなったかどうかさえ分かりません。かなり積もっていました。また、御聖堂灯油3台の排出口も雪が降ると心配になります。昨年は一度埋まって一酸化炭素中毒になりそうでした。恐いですね。


2月1日(日)今日は集会祭儀です。僕はお近所さんからのお誘いがなかったので、行きませんでした。今日は聖句をお伝えします。
マタイによる福音 その時イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。 柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。儀に飢え乾く人々は幸いである。その人たちは満たされる。哀れみ深い人々は、幸いである。その人たちは哀れみを受ける。 心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。儀のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。よろこびなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(僕自身何の価値もない人間ですが、福音を読んでこうしてホームページで紹介して、一人でもこのページん関心を持っていただく人がいれば、報われる思いがあります。ま、自己満足ですけど。イエス様の言葉を借りていますが。)
1月30日 マルコによる福音 その時イエスは人々に言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きをしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず、茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すると早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」さらに、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえでみ言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(からし種のお話は有名ですね)
1月29日 イエスが一人になられた時、12人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこでイエスは言われた。「あなた方には神の国の秘密が打ち上げられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして、立ち帰って許されることがない」ようになるためである。」また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。ではどうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこにみ言葉が蒔かれそれを聞いてもすぐにサタンが来て彼らに蒔かれたみ言葉を奪い去る。石だらけのところに蒔かれるものとは、こういう人たちである。み言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いてもあとでみ言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐつまづいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちはみ言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、み言葉をふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の実を結ぶのである。」(う~ん、僕は石だらけのところの種だな。)
1月28日 マルコによる福音 そのとき、イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まってきた。そこで、イエスは船に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスは例えでいろいろ教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種をまく人が種を撒きに出ていった。撒いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、医師だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると茨が伸びて多いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種はよい土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30杯、あるものは60倍あるものは100倍にもなった。」そして、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われた。(今日はここまで)
1月26日 ルカによる福音 そのとき、主はほかに72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に2人づつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。私はあなた方を遣わす。それはオオカミの群れに子羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持っていくな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人に留まる。もし、いなければ、その平和はあなた方に戻ってくる。その家に留まって、そこで出される食べ物を食べ、また飲みなさい。働くものが報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出されるものを食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国は近づいた』と言いなさい。」(さらに72人の弟子を任命したんだ。すごい人気だったのですね)
1月23日 マルコによる福音 その時、イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。そこで12人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして12人を任命された。シモンにはペトロという名をつけられた。ゼメダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名をつけられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それにイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。(12使徒を決めたお話です。)
1月18日 マタイによる福音 その時、イエスは弟子たちに言われた。見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなた方の天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人から褒められようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはならない。はっきりあなた方に言っておく。彼らはすでに報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれが、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(う~ん!さすがに自分の手はそうして善行を隠すことはできないと思うけど、ついつい善行はなんとなくお知らせしたいですね。)
1月13日 マルコによる福音 その時イエスはティルスの地方を去り、シドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群集の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」といわれた。これは「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いていった。「この方のなさったことはすべて、素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにして下さる。」
1月12日 今月のおとずれ651号です。
1月6日 マルコによる福音 その時、イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で回りの里や村へ何か食べるものを買いに行くでしょう」。これに対してイエスは、「あなたがたがかれらにたべものをあたえなさい」とお答えになった。弟子たちは、「私たちが200デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか。」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見てきなさい。」弟子たちは確かめてきて言った。「5つあります。それに魚が2匹です」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は100人、50人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ2匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、12の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が5000人であった。(パンを増やすことによってイエスは自分が預言者であることを示されたとのことですが、この奇跡は目の前で行われたので、びっくりですね。昔のお話ですけれど)
1月1日 今日はミサがありました。侍者の仕事があったので、行きましたけど、少し寒い日でしたね。初めて神父様と写真を撮りました。来られた方々は新年に神様への挨拶ですね。今日は手作りクッキーとコーヒーです。






2026年1月1日の「世界平和の日」教皇様のメッセージ
1月1日 ルカによる福音 その時、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉おけに寝かせてある乳のみ子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に収めて、思いめぐらしていた。羊飼いたちは。見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった。八日たって、割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(イエス様の生誕からイエスの名がつけられるまでのお話です)
12月28日 マタイによる福音 占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこに留まっていなさい。ヘロデが、その子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに現れて、言った。「起きて子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは死んでしまった。」そこでヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に帰ってきた。しかし、アルケオラが父ヘロデの後を継いでユダヤを支配していると聞き、そこへ行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。(ガリラヤはパレスチナに位置していて、現在のイスラエル北部ヨルダンの一部だそうだ。)
12月25日 今日はクリスマスのミサがあり、終わったらささやかなパーティです。藤幼稚園の子供たちがミサに参加して、いつもと違う若返りミサになりましたね。江別教会や小野幌教会の信者さんもたくさんお見えになりました。






12月21日 今まで教会での僕の役割は、集会祭儀での司会とミサの侍者、そして時々除雪のお手伝いやろうそく付けやろうそくの灯を消すお手伝いがありますが、来年はもうやめる方向で考えています。でも81歳の老人の出番を作っていただいたのは、大いに感謝しないといけないですね。信仰の薄い僕がいつまでもやれる仕事ではないですね。(問題は若い人たちがいないわけではないのに引き継いでいくシステムがないことかな。)
12月21日 マタイによる福音 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを受け入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことを実現するためであった。「見よ、乙女が身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は「神は我々とともにおられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。(このお話は処女マリアの懐妊として言い伝えられてきました。我々信者は信じていますが、私生児を生んだとも考える人たちも多いです。カトリックでは信仰の1丁目1番ですが、今ではあまり目くじらを立てることではないかもしれませんね)
12月17日 マタイによる福音 アブラハムの子ダビデの子、イエスキリスト様の系図が述べられています。マリア様まで数えて、42代の系図です。すごいですね。
12月15日バチカン教皇庁より
12月14日 使徒ヤコブの手紙 兄弟たち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなた方も忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った予言者たちを、辛抱と忍耐の規範としなさい。(待降節だからでしょうか)
12月7日 おとずれ650号 2025年最後のお知らせです。松村神父様が月寒教会から小樽駅まで歩かれたそうです。使徒巡礼にたとえた歩きだったようですね。普段散歩していた僕もそういうことも考えて歩くといいのでしょうか。単なる散歩も黙想になりますね。少し考えさせられましたね。
12月7日 今日は久しぶりに集会祭儀で、司会をします。このところ体調がすぐれない日が続きましたので、そろそろ引退かな。1月1日の司会もあるので、それで最後にしようかな。若い人たちでお任せしてもいいのではないかとも思いますね。
11月29日ルカによる福音 その時イエスは弟子たちに言われた。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなた方を襲うことになる。その日は、地の表のあらゆるところに住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなた方は、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ついつい日常の事柄にとらわれて、主を忘れないようにしないといけないですね)
11月23日 ルカによる福音(23・35~43)その時、議員たちはイエスをあざ笑って、言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれたものなら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸い葡萄酒を突き付けながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」するともう一人のほうがたしなめた。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」そして、「イエスよ、あなたの御国へおいでになるときには、私を思い出してください。」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
10月31日 ルカによる福音 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。その時イエスの前に水腫を患っていた人がいた。そこで、イエスは法律の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは法律で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。するとイエスは病人の手を取り、病気を癒してお帰しになった。そして言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからと言って、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。(緊急の時はそれが優先されるのは当然ですね。原理主義者に対しての批判です。)
10月21日 ルカによる福音12・13~21 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない。』と思いめぐらしたが、やがて言った。『こうしよう。蔵を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産を皆しまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったい誰のものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」(いやはや今の時代は持っていた蓄えがどんどんなくなってきて、もはや蓄えがなくなってきている者にとってはどう考えるといいのだろうかな。)
10月12日 今日は久しぶりに教会に行きました。奇神父様のミサがありました。沖縄に行かれた方が帰天されたので、そのご家族が教会に来られて、皆で祈りを捧げました。










9月26日 ルカによる福音 イエスが一人で祈っておられた時、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆たちは私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』(旧約聖書の預言者)という人も、『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』という人もいます」。イエスが言われた。「それではあなた方は私を何者だというのか。」ペトロが答えた。「神からのメシア(救い主)です。」イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺され、三日目に復活することになっている。」(イエスの予言ですね。その時は弟子たちもよく理解していなかったようです。)
9月14日は「十字架称賛」の日だそうです。「毎日のミサ」で紹介されています。「エルサレムではすでに5世紀から、復活聖堂の献堂を記念する9月13日の翌日に、キリストの十字架を礼拝する習慣があり、これは次第に東方教会全体に広まった。ローマにこの習慣が取り入れられたのは7世紀になってからである。今日ではキリスト者の救いと勝利の希望であるキリストの十字架を思い起こす祝日である。」(キリストと十字架はそのまま我々信者にとっても救いの原点でもあるが、称賛日があるのですね。この文章を読むと教会も歴史的経過(事実)を考えないといけないですね)
9月14日 今日は韓国の神父様のミサがありました。皆さんの人気者の神父様です。ミサの後には昼食会がありました。





9月12日 ルカによる福音 その時イエスは弟子たちに例えを話された。「盲人が盲人の道案内をすることが出来ようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師に勝るものではない。しかし、だれでも、十分に修業を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ、自分の目の中にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおがくずを取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれが、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおがくずを取り除くことができる」(また極端なお話ですね。さすがに丸太はないけどね)
9月11日 先日亡くなった方の新聞を読んで、その方が僕の知っている方ではないかと気づき、ご自宅に行きました。僕の自宅のすぐ裏に住んでおられる方なので、行ってお会いしてみて、びっくりしました。いつも仕事をご一緒している方でしたので、二度びっくり。何ということでしょうか。同じカトリック信者さんでしたので、何かこのめぐり逢いにどう表現してよいかわからないですけど、喜んでいます。
8月31日 今日は江別・大麻・新札幌の3つの教会で合同のミサがあり、江別教会に行きました。ミサの後には信者さんが作ってくれたケーキやコーヒーをいただきました。その後開発さんと私はローヤルホストに行って、なるべく軽い食事をと思いましたが、てんぷらなどしかなくて、夜ご飯はあまり食べないようにしました。


8月24日 今日はミサがあり、食事会もありました。皆さんと一緒に食事をするというのは単に食事だけのことではなく、普段お話ししない方との会話や一体感も生まれますね。僕はあまり会話は得意なほうではないのですが、写真を撮ったり、それをホームページに残したりすることで、少しは役に立っていることがあるかもしれないですね。でも何よりもいつも食事を作ってくださる方たちの努力には感謝しないといけないですね。また、いつもこの時間に献金などの会計をしていて、食事会に参加できない方もいます。ご苦労様です。


8月15日 今日は80年前の終戦記念日ですが、カトリック教会としては「聖母マリアの被昇天の日」として祝われています。今日は千葉神父様の司式のもとで僕は侍者をしましたが、珍しいことにさしたる失敗もなく無事ミサが終わりました。その後皆で食事をしました。今日は無料で食事がふるまわれました。写真は忘れました。
8月17日 今日はミサ最初の「集会祈願」を紹介します。 「全能永遠の神よ、あなたは、御一人子の母、汚れのない乙女マリアを、体も魂も、ともに天の栄光に上げられました。信じる民がいつも天の国を求め聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように。聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり,世よとこしえに生き、治められる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン」(今日は聖母マリア様の被昇天の日です。今日はミサの最後にマリア様の聖歌407番?を歌いました。とても良い曲です。僕が死んだときはこの歌を歌ってほしいですね。)
8月12日 マタイによる福音 その時、弟子たちがイエスのところに来て、「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。私の名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。これらの小さなものを一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである。あなた方はどう思うか。ある人が羊を100匹持っていて、その1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を探しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もしそれをみつけたなら、迷わずにいた99匹より、その1匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さなものが、一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。」(なぜ弟子はこのような質問をしたのかな。天国で一番偉い人は神様ですが、あえて、小さな子供と答えました。この福音は何度も読まないとよくわかりません。子供のような汚れのない心を持っていることの大切さや小さな者を軽んじないように警告しているのでしょうか。)
8月6日 マタイによる福音 8月5日と6日はイエスの奇跡についてのお話です。一つはイエスのもとに集まった群衆にたいしてパンと魚を増やして与えたのです。たった5つのパンと二匹の魚を男だけで5千人そのほか女と子供もいたが、それをすべての人に食べさせて、残ったパンは12のかごいっぱいになったそうだ。また、その後イエスは湖の上を歩かれて、弟子たちを驚かせたという話です。(現代で奇跡を目の当りにしたら、すぐに信じますけど、「信仰の弱い者よ」と言われますね。信仰と科学の間には大きな溝もあります。子供のころシスターのお話で、十字架のキリストを見て、ある母親が、残酷なので見たくないと言ったが、生まれてきた子供は盲目であった、という話をされました。子供心にもちょっと怖くなった記憶があります)
7月31日 聖イグナツィオ・デ・ロヨラ司祭の記念日です。1491年スペイン北部のロヨラに生まれる。軍隊(騎士として「神の軍隊」とも呼ばれていた。)での生活を送っていたが、のちに神に立ちかえり、、パリで神学を学んで、やがてローマで正式にイエズス会を創設した方です。1556年にローマで死去。1534年に7人でイエズス会を創設。その中にフランシスコ・ザビエルも参加していた。1540年にローマ教皇(ヴァウルス3世)に承認された。パリ大学での学友の6名の同志と創設されたのである。1537年には全員が司祭の叙階を受ける。教皇への服従とともに当時プロテスタントに対抗ということもあったが、教会にはびこる汚職、不正、霊的怠慢を激しく批判したそうです。ザビエルは1549年に来日。2年間布教活動をした。イエズス会は世界的な布教活動だけでなくて、大学などの高等教育機関の運営にも積極的に取り組んだそうです。私の父がイエズス会に所属していることはなんとなく聞いていたが、直接聞いたことはなかった。)
7月30日 マタイによる福音 その時、イエスは、別のたとえ話を持ち出して、(人々に)言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に撒けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの大きな木になる。」また、別のたとえをお話になった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」。イエスはこれらのことをみな、例えを用いて語られ、例えを用いないで何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことを実現するためであった。「私は口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」(からし種はクロガラシのことで、一粒0.5mm程度のものだそうです。キリスト教文化圏では信仰心や良心を現す宗教的な言葉として使用されるようです。またからし種は最小の単位であって、「最も弱い者、貧しいものを現している」(ウイキペディア)ようです。大きくなると空の鳥が来てその枝に宿るという例えは翻訳が正しいかどうか不明です。サトンという単位は容量を示すもので、13.17リットルです。意外と重い。10リットルのポリタンクを想像するとわかりやすいですね。)
7月27日 最近忙しくて、教会に行っていなかったけど、今日は神父様が来られて、皆で食事をしました。今日のルカによる福音は「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」という聖句です。しかし、本当は「求め続けなさい」ということだと、神父様はお話をされました。求めれば、与えられるという簡単なことではなく、求め続けることが大切だということでした。(僕は神様に何でもすぐ求めてはいけないものだと思っていました。お願いすることは究極の時と思っていましたが、そうでもないのかな)




7月16日 マタイによる福音 その時イエスは言われた。「疲れたもの、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で、謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。」(この聖書の箇所には思い出があります。酪農学園の教授会で聖書の1節を読んで祈りをしました。プロテスタントの大学でしたが、牧師様からその日の教授会の祈りを任せられて、この個所を読みました。 僕の好きな聖句でした。)

7月13日 今日はミサがありますが、僕は侍者に指名されていますので、ご近所さんを連れていくことにします。最近はで「夏祭り」の仕事で忙しかったのですが、ようやく準備が整ってきたので、気持ち的に楽になってきました。
7月13日 ルカによる福音 その時、、ある立法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「立法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が与えられる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか。」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って、行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て、哀れに思い、近寄って傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うのか。」立法の専門家は言った。「その人を助けた人です」そこで、イエスは言った。「行って、あなたも同じようにしなさい」(今日、僕は大きなミスをしましたが、お二人の神父様がサポートしてくださいました。それだけでなく、あとでもまた教会にいつ来るのかお尋ねになりました。心温まるお言葉をいただき感謝ですね。聖書の言葉が心に刺さりました。

