カトリック大麻教会について

 このページはあくまでも工藤の個人的なページですが、教会の行事予定についてはカトリック教会の公式なものですし、教皇様のメッセージはそのまま掲載しております。工藤個人の感想や意見についてもカトリック教会で発行している「毎日のミサ」を参考にしていることが多いです。(2024.2.3)

アクセス数 141…144…156…167…202…214…250

4月25日 マルコによる福音 その時イエスは11人の弟子に現れて、言われた。「全世界へ行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしを行う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手でヘビをつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、いたるところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らが語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(主イエスが天に上り、いよいよ弟子たちが活躍します。)

4月16日 ヨハネによる福音 その時、群衆はイエスに言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。私たちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」するとイエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」そこで彼らが、「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と言うと、イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して乾くことがない。」(群衆は結構図々しいですが、比ゆ的な言葉はなかなか理解できないですね)

4月10日 ヨハネによる福音 神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じるものは裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の御独り子の名をを信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも暗闇を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(時々わかったような、わからないような)

教皇フランシスコ メッセージ ーAIと心の知恵ー

4月7日 ヨハネによる福音 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。そういって、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が許せば、その罪は許される。誰の罪でも、あなた方が許さなければ、許されないまま残る。」12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「私は主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手にくぎの跡を見、この指を傷跡に入れてみなければ、また、この手をその脇ばらに入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸には皆カギがかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じないものではなく、信じるものになりなさい。」トマスは答えて、「私の主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(結構有名な箇所ですね。私がもしトマスだったら、やはり実際に見ないと主の復活は信じられなかったでしょうね)

4月1日 復活の主日について  31日に復活のミサがありましたが、そこで使徒言行録が宣べられました。ペトロが口を開きこういった。「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に表してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をした私たちに対してです。そして、イエスは、御自分が生きているものと死んだ者との審判者として神から定められたものであることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと私たちにお命じになられました。また予言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の許しが受けられる、と証しています」(キリストを信じるものが赦しを受けられると。そうなんだ、結構限定されているようですね)

3月31日 キリスト様ご復活の日 イエス・キリストの復活をお祝いして、ささやかな昼食会。そして今日司祭になられてはじめてのミサを司式された千葉神父様の歓迎会も兼ねました。

新しい神父様と。
副委員長の小野さんと。

3月28日 最後の晩餐日 夜7時からのミサでした。侍者としては3人でお手伝いをしました。松村神父様のお話は僕的にはとても真剣に聞かせてもらいました。キリスト様がこの世にお生まれになって、十字架に磔になる、そのことは神様の御業を完成させるためのものであったこと、人類に対する愛そのものを示されたとのお話だったかと。記録ではなく記憶に残りましたね。聞いたことをすぐ忘れますので、記録に撮っておきたいですね。本当はその場でメモしたいのですけどね。(この世の終わりの裁きと言うのはイエス・キリストによる自己犠牲そのものによって、人類皆が許されるということにつながるということかな)

3月27日 使徒パウロのフィリピの教会への手紙  イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(神にささげる捧げものが羊なのはまだわかりますが、人間イエス・キリストであるという考え方はなかなか理解できないですね。)

3月24日 受難の主日です。イエス・キリストが十字架に磔になり、3日目に復活をするというキリスト教にとって最も大きな出来事が控えています。28日が最後の晩餐、29日が主の受難日です。来週の31日(日)は復活の主日(復活徹夜祭)になります。イースターと言って卵を配ったりしますね。卵はある意味復活の象徴ですね。

3月23日 カトリック大麻教会について   日曜日(主日日)は朝11時~12時ころまでは毎週ミサがあります。神父様不足のため1周目と3週目は基本的に神父様は来られませんので(神父様は複数の教会を受け持っていますので、毎週は来られません)そのため信者のみで集会祭儀と言う形で祈りの機会を設けています。司式は信者が行っています。昔は教会には神父様が住んでおられましたが、現在はそのような形にはなっていない教会が多いですね。大麻教会は藤認定こども園と接していて、そのため幼稚園児の行事に使われることも多いです。教会としては曜日的には基本的に水曜日にミサがあります。その時は神父様が来られます。そのほか信者の方が教会の掃除とか様々な活動拠点として使います。

3月21日 ヨハネによる福音 その時、イエスはユダヤ人たちに言われた。「はっきり言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊にとりつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、予言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『私の言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないのか。予言者たちも死んだ。いったいあなたは自分を何者だと思っているのか。」 イエスはお答えになった。「私が自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。私に栄光を与えてくださるのは私の父であってあなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはこの方を知らないが、わたしは知っている。私がその方を知らないといえば、あなたたちと同じく私も偽りものになる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」するとユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。(やはり、その言葉は理解できないですよね。)

3月19日は 聖ヨセフの日 3月19日にヨセフの記念を行う習慣は十世紀の西方教会の教会暦に見られる。処女マリアの夫ヨセフは、聖家族の長として、イエスを守す務めをゆだねられていた。教会は、ナザレの聖家族の保護者であったヨセフを、キリストの体である教会の保護者として崇敬している。

マタイによる福音 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアとよばれるイエスがお生まれになった。イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は精霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおりにした。

3月15日 答唱詩編 主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。 主のまなざしは正しいひとに、耳は彼らの叫びに。主は正しい人の声を聞き、悩みの中から救ってくださる。主は虐げにあう者のそばにおられ、失意の人を支え、主はそのしもべの魂をあがない、より頼む人を滅びから救われる。

3月10日 今日のミサは司教様でした。説教は「裁き」と言うことでした。この世の終わりにイエス様が裁きをされるということに僕たちは恐れていますが、司教様はそれは決して弾劾ではないとお話しされました。むしろ「許し」のような感じでお話をされていました。内容的には1日たってもうわすれてしまったことに後悔です。誰かに教えてもらおう。   その後、松村神父様から返事がきた。司教様のお話は頭の中のお話で、記録はないそうです。とても残念ですね。

3月7日 「キリスト信者の悩み」 森田健児神父のお話(おとずれ629号) このお話は僕たちの日ごろの悩みを的確に指摘しています。キリスト信者の一つの悩みは自己評価の低いことだそうです。その理由の一つは①誠実に生きようとする人は自分をよく見つめる。②キリストの教えを追い求める人はより高い理想を求める。心の中の罪さえ見つめる③私たちが日本人だということ。日本人は自己肯定観が低い。④自己否定感を持つと神に向かう時に後ろめたさを感じ、一層キリスト信者を苦しめる、と指摘しています。そして、主はおっしゃってくださいます。あなたの弱さはあなただけのせいではない。自分の弱さに悲しみ過ぎず、自分を責め過ぎず、わたしにゆだねなさい、自分を改めようと努め、一生懸命生きようとするならそれだけで十分ではないかと。(本文は手に入れば、とても良いお話なのでまた紹介します)

3月6日 詠唱 主よ、あなたの言葉は霊であり命です。あなたは永遠の命の言葉を持っておられる。 

3月の予定表

2月29日 今日はルカによる福音の中で、死後の世界についてイエス・キリストが話しています。長いので端折りますが。金持ちは毎日ぜいたくな暮らしをしていた。一方ラザロと言うできものだらけの貧しい人、この二人の死後の比較です。この貧しい人はどうやら天国にいるらしい。一方の金持ちは煉獄かな。苦しんでいます。そこで金持ちだった人が「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」と頼むと、「お前は生きている間に良いものをもらったが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今はここで彼は慰められお前はもだえ苦しむのだ」。そこで彼は兄弟たちにこんな苦しい場所に来ないように言い聞かせてくださいと頼みます。しかし、「お前たちの兄弟たちにはモーセと予言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」「もしモーセと予言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあってもその言うことを聞き入れはしないだろう」 (金持ちは天国の道は遠いというお話ですが、現世での生き方を変えなさいということですか。当時の貧富の差、弱者の置かれている事情・生きていても未来を描けない差別された人々、こういう当時の社会を理解する必要も感じますね)

2月26日 ルカによる福音  その時、イエスは弟子たちに言われた。「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることはない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなた方も罪人だと決められることはない。赦しなさい。そうすればあなた方も赦される。与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りを良くして、懐に入れてもらえる。あなた方は、自分の量る秤で量り返されるからである。」  (今の時代、裁かず、罪人と決めず,すべて赦す人間になれるだろうか。教会に入った泥棒に「あれはあげたものだ」と言えるだろうか。自分を棚に上げているのだろうか。)

2月25日 マルコによる福音  その時イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤ(預言者を代表)がモーゼとともに現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロはどういえばよいのか、わからなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲(神御自身)の中から声がした。「これは私の愛する子、これに聞け」弟子たちは急いで辺りを見渡したが、もはや誰も見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活すとはどういうことか論じ合った。

マルコとはどういう人物か  世界百科事典・日本国語辞典などによると、1C半ばの新約聖書に言及される初代のキリスト教徒の一人。9Cに遺体がアレクサンドリアで発見され(殉教)、海路ベネチアへ運ばれ、サン・マルコ大聖堂が建てられたそうだ。エルサレムで生まれたユダヤ人。フブライ語でヨハネと呼ぶそうだ。

2月24日 マタイによる福音 その時イエスは弟子たちに言われた。「あなた方も聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけを愛したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。」  (敵が悪魔的な人ならどうなるのか。敵なる人がその罪に気づいていないとして神に許しを願うのかな。)

2月20日 今日はマタイによる福音の中で、主の祈りが紹介されています。イエスは弟子たちに言った。あなた方が祈る時に、こう祈りなさい「天におられる私たちの父よ、皆があがめられますように。御国が来ますように。み心が行われますように、天におけるように地の上にも。私たちに必要な糧を今日与えてください。私たちの負い目(罪)を許してください。私たちも自分に負い目をある人を許しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪いもの(悪)から救ってください。」(私たちの祈りの中で最も重要とされている「主の祈り」です。現在は少し文章は異なっていますが、中身は同じです。)

2月18日 マルコによる福音 そのとき霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこに留まり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われた。

イエスはガリラヤ兵器2月18日 四旬節第一主日 集会祈祷  全能の神よ、年ごとに行われる四旬節の典礼を通して、わたしたちに、キリストの死と復活の神秘を通して、わたしたちに、キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。日々、キリストの命に生きることができますように、聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエスキリストによって。アーメン 

2月16日 聖句について (「毎日のミサ」という本があり、ほぼ毎日聖書の言葉に接します。聖書そのものは2000年もの前の出来事を中心としているので、わからない部分も多いですね。時代背景もわからないので理解できない部分があっても仕方がないですが、それを積極的に説明する努力もカトリック教会には求められますね。わが国で信徒数が少ないのも、そういう努力や今の時代に合った宗教観も求められているかな。日本の事例で言うと、キリシタンに対する弾圧がありましたが、弾圧されても信仰を捨てなかった人たちが多くいました。今の時代から見ると、なぜあのような弾圧の中で信仰を捨てなかったのか。すごいとしか言えないけど、本当にそのことを理解しているのかと言えば、多分理解していないですね。それは個人の信仰の深さの問題なのかな。)

2月15日 ルカによる福音  その時イエスは弟子たちに言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排除され殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背をって、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を亡ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」

2月7日 集会祈祷 new!  聖なる父よ、あなたは倒れていた世界をキリストの死によって、新しい命に立ち上がらせてくださいました。信じるものを罪の束縛から解放し、終わりのない喜びを味合わせてください。聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン

2月6日 聖アガタおとめ殉教者  3世紀の方。シチリア島のカタニアの貴族の家に生まれた。教養もあり、大変美しかったアガタは,島の知事から結婚を申し込まれたが拒否したため怒りを買い、キリスト教であった彼女は法廷に引き出された。当時はローマ皇帝によるキリスト教徒への弾圧が激しく、信仰を捨てるためアガタは乳房を切り取られるという拷問を受けた。衰弱してもなお祈りを続ける彼女のところへ聖ペトロが現れて励まし、奇跡的に傷が治ったといわれる。決して信仰を捨てない彼女はついに炭火と焼けつく石の上に引きずられ牢獄の中で息を引き取ったそうです。(アガタとは、「よいもの」の意味である。キリスト教徒はずいぶんと迫害を受けて殉教もあったようですね。たまたま昨日、札幌司教区からメールが来て、フランシスコ修道会より、シスター・M・アナスタジア福井みつ子さん94歳の帰天の連絡が来て、約68年にわたって奉献生活をされたとありました。ある意味自分の人生すべてを神にささげるというのは殉教ですね。月形新田マリア院帰天されたとありました。ご冥福を祈ります。)

 

2月3日 高山右近 殉教者の記念日 new!  1552年 摂津の国(現在の大阪府豊能郡)に生まれ、11歳で家族とともに受洗。のちに高槻城主となり、織田信長、豊臣秀吉の重臣として仕えた。また宣教師を助けながら、領内で福音宣教を積極的に進めると同時に、慈悲のわざにも力を尽くした。1587年。伴天連(ばてれん)追放令に伴い、秀吉から棄教を強く命じられたが応じず、大名の地位を追われた。加賀の前田家に保護され、金沢の地で福音宣教に励んだ。江戸幕府のキリシタン禁教令により、1614年にマニラに追放され、翌年2月3日、同地で逝去。2017年2月7日、大阪で列福された。(ほんの近年だったんですね、ビックリ)

1月29日 神父様のお話

 (昨日のミサでは「カトリック教会では悪魔の存在を信じています」とのお話がありました。天使と悪魔、究極の存在です。最近もキリストのお名前を祈りに出しながら、戦争を仕掛け、たくさんの人々を殺したり、人質に取ったり、武器を販売したりする国や人たちがいます。この国や人たちはまさに悪魔的です。キリスト教はその根本には「人類への限りない愛」で満ち溢れているはずですね。人間はいつどこで悪魔に変身するのかな。)

1月25日 今日の教会

今日は猛吹雪でした。少しだけ除雪をしました。

 私がこのページを開設しているのはもちろん教会の行事や祈りなどをお知らせすることですが、自分自身の生き方に向き合うためです。私たちの世界は矛盾にあふれています。戦争、殺戮、個人の尊厳を奪っていたり、平和とはとてもかけ離れています。その世界から逃げるのではなく、平和を願い、僕自身もホームページで何かしら発信し続けていくことの意味を問いたいのです。(11.19)

1月25日 聖パウロの回心(聖句は長すぎてちょっとはしょりました)

 キリストの弟子たちを迫害していたサウロ(のちのパウロ)はダマスコに向かう途中、復活したキリストと出会い、迫害者から信仰者に変わった。パウロの回心をこの日に記念することの起源は定かではないが、5世紀後半の「ヒエロニムス殉教録」にはすでに記載されている。

1月24日 マルコによる福音

 その時イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まってきた。そこでイエスは船に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種をまく人が種まきに出て行った。撒いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで、土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、芽がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった。」そして「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われた。…良い土地に撒かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100の実を結ぶのである」

1月21日 苦しんでいる方へ

 (石川県の被災地の方々はもちろん、ほかの地域の方で様々な苦しみを持っている方々、日々の生活の中で様々な解決できない悩みを持っている方々、一人だけで、どうして自分だけと思っておられる方も多いと思います。でも、僕も悩みは多少ともあります。残念ながら祈りだけでは解決しません。でも祈ります。それは毎日の生活の中で少しでも心の中の苦しみを軽減するために祈りの中で救いの道を探るからです。人間はどうして過去を捨てきれない動物なのかな。人間はどうして罪意識を持つのかな。ほかの宗教と違い、カトリック教徒はいつも罪意識を持ちます。時々カトリック教会の厳格な罪意識を忘れたい気持ちにさえなります。これは我々カトリック教徒の意識です。一般の方の中には今回の地震のように何の罪意識もない中で、突然身の回りに起こった信じられない悪夢のような事件や事故に見舞われて途方に暮れている方もたくさんおられます。このような方には神も仏もない状態に落ちいっていることでしょう。そんな方には我々はほとんど無力です。宗教の無力を感じます。ですけど、そういう方のために祈りを捧げたり、何らかの支援をしたりできます。一人一人の支援する気持ちは小さいものでもたくさんの方の気持ちはいつか必ず苦しんでいる方に届くはずだと思っています。教会で皆さんと一緒になって祈ったり、支援金を集めたりできます。私たち自身もほとんど無力ですが、苦しんでいる方々への寄り添う気持ちをいつまでも忘れないでいたいものです。)

1月20日 集会祈祷

 恵み豊かな神よ、あなたを仰ぎ見る民の、心からの願いを顧みてください。私たちが何をすべきかを知り、果たすべき使命を全うすることができますように。聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

1月17日 (毎日のように雪が降り、江別市も降雪で全国放送されたようです。私も毎日排雪作業を継続中です。今日も軽トラで3度雪を捨てに行ってきましたが、午後には2階の雪捨てを家内としなければなりません。いやいやながら働き者にならざるを得ません。おかげで、教会にもなかなか行けないので、教会の雪はどうなっているのか気がかりです。)

1月13日 マルコによる福音

 その時イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まってきたので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座ってるのを見かけて、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席についておられた時のことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従ったのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

1月7日主日 災害被災者のための祈り

 父である神よ、すべての人に限りないいつくしみを注いでくださるあなたに、希望と信頼をこめて祈ります。災害によって、苦しい生活を送り、不安な日々を過ごす人々の心を照らし、希望を失うことがないように支えてください。また、亡くられた人々には、永遠の安らぎをお与えください。すべての人の苦しみを担われたキリストが、いつもともにいてくださることを、祈りと行動によってあかしできますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会認可)

1月9日 マルコによる福音

 イエスは、安息日にカファルナウムの会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになられたからである。その時、この会堂にけがれた例にとりつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け。」とお叱りになると、けがれた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出ていった。人々は皆驚いて、論じ合った。「これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人がけがれた霊に命じると、その言うことを聞く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々まで広まった。

1月5日 使徒ヨハネの手紙(ヨハネ3・11~21)

 愛する皆さん、互いに愛しあうこと、これがあなた方の初めから聞いている教えです。カインのようになってはなりません。彼は悪いものに属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなた方を憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのないものは、死にとどまったままです。兄弟を憎むものは皆、人殺しです。あなた方の知っている通り、すべての人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、、兄弟が必要なものに事欠くのを見て同情しないものがあれば、どうして神の愛がそのような者のうちにとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって、誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神のみ前で安心できます。心に責められることがあろうとも、神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神のみ前で確信を持つことができるのです。

1月1日 晴  江別市は今日は結構冷えています。マイナス10度以下です。昨日は一歩も外に出歩かなかったので、今日は少し歩きます。今朝の食事もお酒は飲まなかったので自由です。さすがに教会にはいきませんけど。11,000歩

1月1日(毎日のミサ) ルカによる福音 ルカ2・16~21

 その時羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て彼らはこの幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日経って、割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは胎内に宿る前に天使から示された名である。 

12月28日 マタイによる福音

 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「生きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した。」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちに騙されたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、ひとり残らず殺させた。こうして、予言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく鳴き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。」

 6世紀ころから、教会は主の降誕の季節に聖なる幼子たちの殉教を祝ってきた。ヘロデによって殺されたこれらの幼子たちは贖われた人の初穂である。イエスのために命をささげた彼らは、言葉を話せなかったが、その死によって信仰を証ししたのである。

12月26日 聖ステファノ殉教者

今日はすでにキリストの誕生を引き続き祝う日と思っていたけど、「最初の殉教者、聖ステファノを祈念して祈る日となっています。彼は最初の殉教者でその証は教会の模範として、常に大切にされてきた。彼は、使徒たちを補佐するために選ばれた7人のうちの一人で、やがて福音宣教にも携わった。主・キリストの受難に倣い、自分を迫害する人々に最後まで愛を示して、殉教した。

12月25日 (今日は教会の仲間とコーヒーとケーキを食べました。とてもお元気な方です。)

12月24日 メリークリスマス!

 (今日の夜中にはイエス・キリストの誕生日です。ほとんどの皆さんにとってはクリスマスは、プレゼントをもらったり、ケーキを食べる日ですね。何はともあれ、イエス・キリストの誕生を祝うのは喜ばしいことではありますね。世界中の人々が楽しむ日なんて幸せなことですね。パーティ券で裏金を作ったり、戦争で人々が死んだり、飢えたりしている中でも一瞬忘れましょう。いやいや、それはできないことですね。キリストの誕生日はイエス・キリストの貧しさを思い出させるし、それからの人生、人類を救済することを連想させますね。)

12月22日 ルカによる福音

 その時、マリアは言った。「私の魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからである。今から後、いつの世の人も私を幸いな人と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことしましたから。その御名は尊く、その憐みは代々に限りなく、主を恐れるものに及びます。主はその腕で、力をふるい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、憐みをお忘れになりません。私たちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリザベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

12月20日 ルカによる福音

 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレという町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである乙女のところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方といわれる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を収め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なるもの、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6か月になっている。神にできないことは何ひとつない。」マリアは言った。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで天使は去っていった。

12月10日(待降節第2主日) マルコによる福音

 神の子イエス・キリストの福音の初め。 予言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」 その通り、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「私よりも優れた方が、あとから来られる。わたしは、かがんでその方の履物をひもで解く値打ちもない。私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

12月7日 マタイによる福音(マタイ21,24~27)

 その時、イエスは弟子たちに言われた。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた、賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」

12月3日 マルコによる福音(マルコ13・33~37)

 その時、イエスは弟子たちに言われた。「気を付けて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなた方には分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏のなくころか、明け方か、あなた方には分からないからである。主人が突然帰ってきて、あなた方が眠っているのを見つけるかもしれない。あなた方に言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

今日の個所に何度も繰り返される言葉は、待降節第一主日のテーマをはっきりと示す。待降節とは神の到来を待ち望む季節であり、その到来に向かって生きる態度が「目を覚ましている」ことである。

11月28日 苦しんでいる人たちへ

 (僕自身決して何事もなかった人生ではありません。よく他人は僕に対し、「何事もなく、すべてすいすい解決して生きている」ような言い方をします。顔と声が人によっては威圧的に見えるのも一因です。それは遺伝的なものなのでどうしようもないです。ほかの人もその姿かたちから誤解される方もおられるでしょう。また人は皆人生上、心の奥底にしまっている悲しい・苦しい様々な事柄・歴史があることでしょう。生きている限り、いろいろな失敗があるのが普通ですし、むしろ成功体験は少ないのではないでしょうか。人生ままならないのです。心の持ちようは人によって異なっています。僕自身は過去の事柄については、もうどうしようもないことですが、心の中で度々復活します。でも心の中にしまっておくしかないのです。ほかの人にべらべらお話しすることはできません。皆さんもそうではないでしょうか。でも、何かしら心の中での重荷を軽くすることはできないでしょうか。                              僕の場合、言葉は悪いけど、「蓋」あの「臭いものには蓋」ですね。記憶は決してなくなるものではないけど、しばらく心の奥にしまっておくしかないのです。このページで予想される答えは「神様にすがる」ことかもしれないけれど、神頼みはあったとしてもちょっと違うかな。神様には違う分野で活躍してほしいな。神様も世界中の人たちからたくさん期待されすぎて困りますね。時間が解決するのを待つ。もちろん友人やほかの人たちに相談するのもいいでしょう。日ごろからいろいろな人たちとの交流をしたり、ボランティア活動に参加することもいいかな。ほかの人たちの奉仕活動などを通してほかの人たちの生き方や場合によっては苦しみを理解したりして、自分の生き方の参考にすることもいいかもね。)          

11月12日の「聖書と典礼」より。

共同祈願  時間に追われ、生活に疲れている人々を支えてください。祈りのひと時を見出し、神のいつくしみに触れて心が癒されますように。

タイトルとURLをコピーしました